寛至の部屋~前編~

先日の図書館サボタージュにおいて(参照:33歳の猪木と40歳の猪木、40歳のレガ。)、

これはコピってから帰らねばと思ったのが、

画像、左の一冊でした。
この2冊!!

週刊プロレス増刊 1983/12/10号、

『特集アントニオ猪木 逆境で培われた永遠の闘魂』です。

前々回の記事でも書いた通り、

40歳のアントニオ猪木インタビューが、

40歳の自分としては非常に浸み込んだというか。

聞き手は当時、ワールドプロレスリング実況の古舘伊知郎アナ

こちらも古舘節全開です。
アントンvsフルタッチ

読み入ってみると今が見えて来ます。

 週刊プロレス増刊『特集アントニオ猪木 逆境で培われた永遠の闘魂』 より

古舘「それでは始めさせていただきたいと思いますが、サブタイトルが『闘魂ザ・ロード、アントニオ猪木40年を振り返る』となってまして…」

猪木「私も40歳になったということですかね(笑)」

古舘「40年を逐一振り返ってると、あと40年かかっちゃうわけですから、本当は猪木さんが80歳になった時にこのインタビューは終わるということになります(笑)」

猪木「困ったね(笑)」

古舘「ま、気長に行きたいと思いますけれども(笑)」


まさに阿吽の呼吸でスタート。

猪木と新日本にとって、

激動の一年となった1983年を振り返るのですが、

古舘アナが最も心に残ったシーンとして、

“逆下克上発言”を挙げています。
逆下克上発言@1983

古舘「いま、私が一番印象に残っているのが、あの8.28の猪木さんのリング上の凄まじい顔なんです。あれはリング下の出来事とリング上の出来事を一気にダブらせてしまった信じられないような一瞬でした。『俺の喉をかき切ってみろ!』といった猪木さんのあの声は、いまも私の耳元から離れないわけなんですが、ああした二つの世界を一緒くたにしてしまう猪木さんのエネルギーは、一体どこから生まれてくるのか、とても不思議な気がするんです」

猪木「少なくとも計算してああいう言葉が出るってことはないんです。それに私は心の中ではリングの上と下は別だと考えているわけです。それが突然出てきちゃう、ああいうセリフになってね」

古舘「それが不思議なんですね。不思議といえば、例えば長州なら長州が反乱を起こす。だけど猪木さんはそれを止めようとしませんね。やるならやれ、トコトンやって自分にぶつかってこいという考え方でしょう。その相手を許す、相手を認めてやるという許容範囲がもの凄く広いわけですよ。宇宙的といってもいいくらいなわけです。我々だったら自分の足元に火がついたら大あわてするわけですけど、猪木さんはそれを平然と眺めて、むしろ楽しんでいる気配すらあるように思うんです」

猪木「ウーン、私の世界観、価値観というのが日本的じゃないのかもしれないな。私もいろんな国を訪れてつくづく思うんですが、この地球というのは混沌としたカオスの世界そのものなんですね。たとえば日本では善とされていることが別の国では悪だったりする。まったく逆の価値観が存在しているわけなんですよ。
実際、私なんか日本的考え方とまったく別の考えを持つことがあります。たとえば私のレスリングというのは既成のルールからドンドンはみ出していく非日本的な部分がありますね。
(略)だから、私が日本的常識の中でレスリングをしたら、その時は新日本プロレスの最後、終えんになるでしょうね」


今の猪木からは想像がつかないのですが、

40歳当時の猪木はリングの中と外を、

完全に分けて考えていたんですね。

面白いのは「カオス」という言葉は、

今の中邑を想像させるキーワードですし、

“善と悪の例え話”は、

棚橋から出た事もありました。

そして今、新日のツートップが繰り広げる世界は、

日本的常識内のレスリングなのでしょうか?

既存のルールからはみ出した“非日常”なのでしょうか?

インタビューでは猪木のアスリートとしての原点、

砲丸投げとの出会いまで語られています。

猪木「中学時代に砲丸投げを覚えましてね、以来、毎日校庭の隅に行って1人で投げているわけですよ。試験時期は部活動は一切禁止される規則なんですが、なぜか私は試験の時も1日も欠かさず投げるわけ。どういうつもりだったんだか、今でもよくわからないですけど(笑)。(略)大きな体を持てあまし気味だったところへ、この競技と出会ってやっと自分のエネルギーをぶつけ、発散できる対象を発見したわけです。
校庭に出ると、目の前に富士山が見える。それに向かって玉を投げるんです。いつかあの富士山に届かせてやると思いながら黙々と投げる」


古舘「それはとても孤独な作業のように見えるんですが」

猪木「というより砲丸と私は対話していたんですね。きっと。ほんの少しずつだけど飛距離が伸びていくのが物凄くうれしかったですよ」

古舘「昔、砲丸、いまホーガン、うーむ、ちゃんと現在とつながるなぁ(笑)」

猪木「つながるね。今度はホーガンを投げなくちゃならないな(笑)」


孤独な作業でありながら、

砲丸とのマンツーマン特訓。

最後は得意のダジャレのお株を奪われた格好ですが、

あながち間違ってもいない“縁”なのでしょう。

プロレス入門前の猪木少年を語る上で、

欠かしてはいけないのが祖父・相良寿郎さんとの別れですね。

古舘「ブラジルへ渡る船の中で猪木さんがとても敬愛していたおじい様が病死するという大変ドラマチックな出来事がありましたね。これは猪木少年にとって非常にショッキングなことだったと思うんですが。猪木さんの心のこの出来事はどんな影響を与えたんでしょう」

猪木「簡単にいってしまうと、おじいさんの死を無駄にしたくないということでしょうね(略)

古舘「猪木さんに“世界”という目を開かせたのは、このおじいさんかもしれないですね」

猪木「祖父の話ばかりが続いて恐縮ですがもうひとつ鮮明に思い出すのが、その葬式ですね。洋上での死ですから、その場で水葬にする。日の丸の旗にくるまれた柩がアッという間に波の中に消えていくでしょう。その時、感じた死というもののあっけなさね。私は甲板から祖父の投げこまれた海上をじっと見つめてました。航跡の白い波のあとから、なんか祖父が私たちの船をつけてきているような錯覚に襲われていたんですよ。(略)結局、私はこのおじいさんに人生というのは死ぬまでが闘いだ、ということをボンヤリとした形ではあるけれど教わったようなものですね」

古舘「するとおじいさんの遺志を受け継いでいるようなところも猪木さんにはある」

猪木「あるでしょうね。自分の潜在意識の中には祖父の果たせなかった夢を俺がかなえてみせるというものは絶対にありますよ。これは人の生きざまが他人に与える影響がどんなに大きいかということの、ひとつのあかしでしょう。(略)

古舘「いま魂の開拓者、アントニオ猪木という言葉がぼくの頭に浮かんできたんですが、これからも猪木さんがプロレスを通じて行っていく作業というのは、そうした人の魂の開拓ではないかという気がしてきました」


中学生になるまで、

祖父の布団に潜り込んで眠った程の超爺ちゃん子、

ここもアントンと私をつなぐキーワードです(参照:爺ちゃん子)。

その祖父から引き継いだ“開拓精神”が、

プロレスラー猪木の原点でもあります。

猪木「リングで闘うということは、対戦相手を認めることから出発するんですよ。アリもシンもハンセンも、私は彼らの凄い点、良い所は認める。長州問題にしても、私は彼らを認める。それが結果としてファンが喜ぶような対戦カードを生んでいるわけです」

古舘「相手を認めるということの大きな実例が長州問題でしょうね」

猪木「人間、認められて怒る人はありませんよ」

古舘「これは猪木さんがいわれたことなんですが、トレーニングの最中に自分の中から邪念とか煩悩とかが吹き出してくるんだと…。それを振り払ったり、時にはそれを相手にぶつけていくことがあるんだと」

猪木「ええ、ええ」

古舘「ですからプロレスというのは実に内面的に大変な作業を必要としているんだなと、ぼくは驚いたのですが、自己を見つめ、他人を認めて試合をするということ自体、大変なことでしょう」

猪木「そういうことがやれるのは新日本プロレスのレスラーだけですよ。また新日本の中でも、ごく一部のレスラーしか理解できていない事ですね。これから体で教えこんでいかなければならないでしょうが、それこそ古館さんがおっしゃった開拓精神をもってね」


とにかく何をされても、

とりあえず認めてやる…という考え。

これこそ猪木が日本の常識と異なる最たる部分でしょうね。

そのルーツはもちろんブラジルでの生活です。
ブラジルでの猪木一家

引退時に出版された猪木本でも書かれていましたが、

現地での力道山との出会いは奇跡に等しかった様です。

古舘「ちょっと待って下さい。力道山は猪木さんがブラジル全国大会の砲丸投げの部で優勝した新聞記事をブラジルの巡業先で目にとめ、猪木さんに興味を持ったんじゃないのですか」

猪木「私が優勝したのは、サンパウロに引っ越す前の事なんです。(略)たまたま力道山の巡業の世話をしていた方が、私たちが働いている青果市場のボスでもあったわけです。そこへ力道山が旧交を温めにやってきて、これこれこういう青年を捜しているんだけど、どこにいるのやら見当がつかないとグチをこぼしてたんですね。そのすぐ横に私が働いていたわけですよ(笑)」

古舘「それは猪木さんが青果市場で働くようになってから何日目ですか?」

猪木「まだ10日たっていなかったんじゃないですか」

古舘「それはもの凄い運の強さですね」

猪木「確かに自分でも運が強いなと感じましたね」

古舘「当時、猪木さんの心の中に自分は将来プロレスラーになるんだという気持ちはあったんですか」

猪木「ありました。それは日本にいるころからすでにあったんで。将来はスポーツ選手としてオリンピックに出てやろう、そしてルー・テーズの門を叩いてプロレスラーになろうと、かなりハッキリ思い込んでいましたよ」


少年時代から既に猪木はプロレスラーを夢見ていた訳ですね。

我々と同じ…プロレス少年だった訳ですよ。

これが後々までつづく、

新日は叩き上げの入門、

全日は鳴り物入りの就職、

というひとつの流れを作ったのでしょう。
猪木顔2

日本に帰って来て、

力道山道場入り。

そこからは後編へつづけましょう。

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tag : アントニオ猪木 古舘伊知郎

comment

Secret

No title

わくわくしますねぇ。
最近の猪木の記事ではもうこういった話は出ない(相手が古舘アナという側面もあるでしょうが)であろうだけに、興味津々です。
今、インタビューすれば現代プロレスの悪口か、相変わらずの掴みどころのない世界戦略くらいしか会話に出ないので正直見る気もしないんです。
後編期待しています。

70年代の猪木は素晴らしい

いつも楽しく読んでおります。
今回のレガさんの語り口は、猪木40才当時と自分を重ね合わせた、私小説風な切り口で、初めていらっしゃいますね。
人間、年を取ってくると、自分を顧みたらくなってくるものですからね。

話は変わるのですが、レガさんは、相変わらずUWF、高田、田村に思入れが、あるのですね。
私からすれば、当時から、スポークスマンである、前田の口からでていた、プロレスから真剣勝負への道程等、ある種のインテリ臭さが、鼻について、どうも好きに、なれなかった思いが、あります。
UWFは、真剣勝負だと盛んに言っていたと、思います。
そのくせ、リング上の前田と言えば、相変わらず鈍くさい動きをしていたと、思います。
前田の全盛期は、短く、新日戻って、猪木なら何をやっても許されるのかー!と言っている時では、ないでしょうか?

レガさんがおっしゃるように、猪木=高田=船木というエース論には、同感です。
UWF嫌いの私でさえも、高田と船木の試合は、楽しめましたから。
たしかに、90年代、前半までの高田には、カリスマが宿っていましたから。
特に、バービック、北尾戦等。
そんな高田もすっかり、前田、プロレス界
とも、縁遠くなってしまったようですねー

レガさんに、お聞きしたいのですが、あれほど仲がよく、兄弟子関係だった前田と高田は、何が、理由で疎遠になっているのですか?
ヤフー知恵袋みたいですみません。笑笑


後編を楽しみにしております。

>ナリさん

わくわくしますねぇ…興味津々です<嬉しいです。ブロガー冥利に尽きます。

今、インタビューすれば現代プロレスの悪口か、相変わらずの掴みどころのない世界戦略くらいしか会話に出ない<自分が思い描いていたプロレス界から変質しすぎてしまったというのもありますが、IGF以外の現場から離れすぎたが為に今繰り広げられてる名勝負さえも見逃しちゃってるんですよね。

それにしてもナリさん、
プロレス関連記事に関しては全てと言って良い位にコメントを下さり、本当にありがとうございます。
今後ともお願いします。

>キラー猪木原理主義者さん

人間、年を取ってくると、自分を顧みたらくなってくるもの<アントンの言葉を借りるなら、「私も40歳になったということですかね」と。

相変わらずUWF、高田、田村に思入れが、あるのですね<今後も変わる事はないと思います。
アントンの言葉を借りるなら「もう、一生治らないでしょう」と。

前田の口からでていた、プロレスから真剣勝負への道程等、ある種のインテリ臭さが、鼻について、どうも好きに、なれなかった<私は逆に魅了されていました。
これも70年代の猪木への憧憬が、形を変えて80年代の前田に向いていたのだと思います。

前田の全盛期は、短く、新日戻って、猪木なら何をやっても許されるのかー!と言っている時<同感です。
最も危険なニオイがした…いい時代だったですよね。

猪木=高田=船木というエース論<船木はわかりませんけど、高田は本当に猪木がかわいがっていたと思います。

あれほど仲がよく、兄弟子関係だった前田と高田は、何が、理由で疎遠になっているのですか?<こればかりは、ちょっとわからないんですよね。
前田の中での絶好の基準がいまいち凡人には理解出来ません。

おおアサ芸

これ、買いましたよ。読み応えがありました。まだ捨てていないと思います。
誌上で猪木にエールを送った有名人たちがあの一戦後、みな猪木から去って行きましたね。
このことから世間というものを学びました。
もうひとつ、あの一戦で、世間というものは「知らない、調べない、考えないで決めつける」ということを学びました。ならば、オレは一人プロレスを見続けようと思った少年の日。

週プロ増刊ももちろん買いました。
あのころの猪木の言葉は、村松友視の影響が強く感じられて、少々シラケていました。
「なんだかいろいろと語ってくれているようですが、オレには知ったこっちゃねぇって言うか」とか言って笑い飛ばす猪木でいて欲しかったです。

>Sislandさん

まだ捨てていないと思います<貴重な一冊を!? 凄いですね。

エールを送った有名人たちがあの一戦後、みな猪木から去って行きました<そうだったんですね。
ところでポスターを描いた石坂浩二氏とはその後どうなったんでしょうか?

世間というものは「知らない、調べない、考えないで決めつける」ということを学びました。ならば、オレは一人プロレスを見続けようと思った少年の日<きっかけの大きな一日だった訳ですね。
とにかくリアルタイムで目撃されたという事だけで尊敬します。

あのころの猪木の言葉は、村松友視の影響が強く感じられて、少々シラケていました<前田氏も常々言っていましたね。
あの書籍以降、猪木はダメになったという説もありますし。

SisLANDさんもバリバリの猪木信者ですね。

猪木vsアリ

25年ほど前、猪木vsアリのフルラウンドのビデオを入手しまして、毎晩寝る前に1Rずつ見ようと思ったのですが!
見始めるとおもしろくて、ついつい「もう1R」と見てしまいました。あの緊張感、あのスリル、比類なきものがあります。試合が終わった後に茶番だ○○○だと言った人達に言いたい「ほんとうにつまらなかったですか?」
石坂浩二氏とのその後?
どうなったことやら。元々は奥さん同士が仲がよかったそうですけど。

村松のプロレス断筆の原因は、猪木が村松の言うことを理解できなかったから、という噂がありました。
それは猪木だけではなく、ファイトの井上変酋長は全然理解できていませんでした(「超過激などと言う言葉遊びの世界ではない」と村松の非プロレス本に書いてありました)

>SisLANDさん

25年ほど前、猪木vsアリのフルラウンドのビデオを入手…見始めるとおもしろくて、ついつい「もう1R」と見てしまいました<本当に世代を問わず入手欲が高まる試合だったんですね。

あの緊張感、あのスリル、比類なきものがあります<本当の意味で他にはない一戦としか言えないんですよね。

石坂浩二氏とのその後?<実は今夜Upする記事に石坂氏が出てきます。
この試合の重要な登場人物の一人ですもんね。

村松のプロレス断筆の原因は、猪木が村松の言うことを理解できなかったから<テーブルマッチではスイングして面白い掛け合いだった気がするんですけどね。
引退試合の会場にはいましたが、断筆はその後だったのでしょうか?
たまにラジオなんかに出るときは少しだけプロレス話もしてらっしゃる様ですけどね。

村松友視の断筆

1982年「ファイター 評伝アントニオ猪木」のあとがきで断筆を宣言しました。
とはいえ、月刊・週刊「プロレス」誌上では活動を継続しました。

>SisLANDさん

「ファイター 評伝アントニオ猪木」のあとがきで断筆を宣言しました<以前持っていましたけど、全然気が付かなかったです。

この本、ブラジルの描写が壮絶でしたね。
今回ワールドカップが開かれるにあたって、治安が当時のままという話も聞きますので、やや心配でもあります。
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Author:紫レガ 
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