Uインター異人史 vol.12~カリフラワーアレイクラブ編~(1991~1994)

さて…、

これが本当のオーラスです。

もうガイジン選手については、

書き尽くしました。

…となると、

締めに相応しいのは、

異人というよりも、むしろ偉人と呼ぶべき、

Uインターのビッグマッチに立会人として登場した、

伝説の男達でしょう!!
レジェンド達と記念撮影

試合後の両雄



もちろん最初に登場するのは、

元NWA世界ヘビー級王者

“不滅の鉄人”ルー・テーズ
です!!
立会人テーズ

テーズとUインターの出会いは、

旗揚げ年の暮れでした。

格闘技世界一決定戦(参照:vol.10)開催のニュースを知った、

鉄人自らレフェリーを名乗り出たのです。

U.W.F.最強の真実 (BLOODY FIGHTING BOOKS)
 U.W.F.最強の真実 より

宮戸
ただ、その時点ではルール問題もまだスッキリしていない状態であり、テーズさんの年齢を聞いたら、当時もう70歳を過ぎていたから、ちょっとレフェリーは難しいのではないかと思った。
ただ、ルー・テーズという人には私も非常に興味があったので、これをそのまま「NO」と言うわけにはいかないなと思い、「立会人という形で来ていただければ非常にこちらも光栄です」という話をした。Uインターはもともと「プロレスが最強である」ということを押し進めようとしていた団体だったから、プロレスを支えてきた20世紀最強のレスラー「ルー・テーズ」と出会えたということは、私たちにとってはもの凄く感激だった。


高田vsバービックを語るテーズ

この運命的な出会いから、

宮戸優光高田延彦安生洋二と共に、

往年の名レスラー達が集う、

カリフラワーアレイクラブ(※テーズが当時の会長)の年次総会への出席が実現し、

そこから現在のスネーク・ピット・ジャパンへとつながって来ます。

1991年12.22 両国国技館から、

1995年4.20 名古屋レインボーホール(参照:決意のオエッ~前編~~後編~)までの3年5ヶ月に亘る、
ハグして、

Uインターとテーズの関係の中でのハイライトは、

封印していたテーズ・ベルトの復活(参照:チャンピオンベルト・ワールド(番外編)~プロレスリング世界ヘビー級)でしょう。
テーズベルトの封印を解く

宮戸
統一の世界チャンピオンをまたこのプロレス界に復活させるということに、テーズさん自身もライフワークとして、残りの人生を費やしたいと考え、「君たちなら協力してくれるはずだ」と。その王座決定戦をUWFIでやってほしいと言われたのだ。


このベルトの意義には賛否両論あるでしょうが、

格式の高さと勝負論においては、

他のメジャータイトル以上のものがあったと思います。
調印式

選手権試合はたったの5試合でしたが、

本当の意味での“名勝負”が残されたと思っています。



1992年5.8 横浜アリーナで、

エキシビジョンマッチとして、

二人の元世界王者がUインターに登場しました。

一人は元AWA世界ヘビー級王者

ニック・ボックウィンクル

ニック・ボックウィンクル

当初、宮戸が企画したカードは、

ロビンソンvsホッジのシュート対決でしたが、

ホッジの体調不良で実現せず。

代わりにテーズが声を掛けたのがニックでした。

宮戸
テーズさんも「ニックじゃUWFIも、ミヤトもたぶん納得しないだろう。でも、ニックしかいないのだ」ということで仕方なくそうなったのだった。


リングを降りればジェントルマン

ロビンソンの膝の状態も最悪で、

お世辞にも「素晴らしかった」とは言い難いのですが、

90年代に元祖人間風車(参照:人間風車博覧会)が見られただけでも、
最後の(?)人間風車

実現した意味は大きかったと思います。



その横浜大会から、

最も深くUインターと関わったのは、

元IWA世界ヘビー級王者

“人間風車”ビル・ロビンソン
です。
ビル・ロビンソン

立会人としてよりも、

コーチとしてUインターに技術面で大きく貢献しました。

宮戸
アメリカに道場をひとつ作ることにした。日本にはプロレスの道場がある。アメリカにも昔はあったと思うが、今はもう日本ほど機能はしていない。だから、日本でやっているような、しっかりと学べるシステムを持った道場を作らなければならないと思ったのだ。
当時ロビンソンさんはラスベガスのホテルでガードマンの仕事をしていたのだが、「それを辞められますか? 日本に来たら日本でコーチしてほしいし、アメリカにも道場を作りますから、そこでコーチしてくれませんか?」と打診してみた。
(略)「事務所はテネシーのナッシュビルになってしまうので、そこへ引っ越してもらえますか?」と言うと「ぜひやらせてほしい」ということになり、ロビンソンさんにはラスベガスからテネシーに引っ越してもらった。


この道場で純粋培養されたのが、

ビリー・スコット(参照:vol.2)やジーン・ライディック(参照:vol.6)らです。

1994年2.25 日本武道館のメインでの、

田村潔司戦を控えた垣原賢人が、

ナッシュビル道場で短期特訓を敢行したのも、

印象深いですね。
ロビンソン先生と一枚

ただ日本においては育成というより…、

格闘技通信 2008年 12月号 [雑誌]
 格闘技通信 2008年12月号 より

高山(道場でのロビンソン教室は)宮戸さんと安生さんがロビンソン先生のテクニックを知りたかっただけというか。この技はこうやるんだよって教わるだけだった。だから、俺とサクはただひたすら痛いだけ

桜庭実験台でした。もう頼むからアームロック系の技だけはやめてほしいと思ってました」

高山「すごく痛かったもんなあ。痛さの種類が違った。顔を潰されたり。骨が砕けるんじゃないかと思った


いずれにしてもここから、

現在まで宮戸優光の夢は続いている訳です。
風格たっぷりのロビンソン



最後の最後…本当の最後ですよ(笑)!!

伝説のシュートですね。

元NWA世界Jrヘビー級王者

“鳥人”ダニー・ホッジ
です。
ダニー・ホッジ

前記した通り、

エキシビジョンマッチの出場が叶いませんでしたが、

むしろホッジも道場での役割が大きかった様で…、

高山「ダニー・ホッジもヘンなアームロックをやってたんだよ。俺もやってみたんだけど、『そうじゃない、こうやるんだ』って。まったくできなかった。そしたら、それをみていたルー・テーズとロビンソンが、笑いながら『それはダニーにしかできない技なんだよ』って」

桜庭「ダニー・ホッジって、手がすごかったですよね」

高山「握力が強かった」

桜庭「握られただけで、締めつけられる感じがして」

高山握られた部分がバキバキって鳴ってた。だから、あのアームロックは(握力の強い)ダニー・ホッジにしかできない。(略)あのとき(Uインターに来日時)、すでに70歳くらいだったでしょ。20代、30代のころは恐ろしく強かったんだろうね。Uインターって、そういう“ビックリ人間大集合”的なおもしろさはあった(笑)」


技術指導的な部分はアレですけどね。
Uを語るホッジ

それにしても“ビックリ人間大集合”…、

まさに本来のプロレス団体の姿だと思います。

節制して鍛えられたアスリートたちが、

ギミックとパフォーマンスだけを競い合うよりも、

プロレスラーという超人には、

我々が簡単に近寄れない様な、

強さと怖さを感じたいですよね。
伝説のシュート両氏



最後に私が印象に残っている、

当時のテーズ夫人の言葉を…

「あなたたち(Uインター)は、あの人たち(テーズ、ロビンソン、ホッジ)を、どんどん若返らせてしまうのね! 本当にあの人たち、Uインターに行く前と今では全然違ってきてるわよ!」
Uインターの祝杯5

80年代後半から90年代にかけて、

新日も全日もレジェンドたちをリスペクトする企画がありました。

『グレーテスト18クラブ』と『オールディーズ・バット・グッディーズ』です。

ところが現存する両団体では、

どちらもその様な企画はなく、

Uインターも残っていません。

レジェンドに対して功績を讃えているのは、

辛うじてWWEだけなんですよね…。

これにてUインター異人史は終幕です。

更新が滞りながらも、

気長にお付き合い頂き、

ありがとうございました!!

ちなみに“スタンディングバウト編”はありませんよ(笑)。

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tag : ルー・テーズ ビル・ロビンソン ダニー・ホッジ ニック・ボックウィンクル

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Secret

No title

レジェンドの功績を称えて・・・という話で思い出したのが、ディック・ザ・ブルーザーです。

FMWが横浜球場でビッグマッチを行うにあたって一部で「生傷男」と言われつつあった大仁田厚が、ブルーザーの引退試合(セレモニーだったかな?)を企画して打診したところ『OK』をもらったので、横浜球場大会への参戦が決まりました。
来日前に不慮の事故で亡くなったのですが、久しぶりの日本で恥ずかしい姿を見せられない!とベンチプレスに励んでいたところ無理が祟ってバーベルを上げきれず、苦しんでいるところを家族に助けられたのですが直後に動脈瘤破裂で亡くなったそうです。
FMWは無理はオファーをして・・・とお詫びしたそうですが、ブルーザーの家族からは
「あんなに活き活きした父を見たのは久しぶりでした」
と、感謝をされたそうです。
確か週刊ゴングにこの話が載っていたのですが、wikipediaを見ても載ってないので誰も知らないのか創作だったのかは不明ですが。

No title

まさにプロレスといった感じです。
それ以外に答えは見つからないです。

>ジョーカー ナリさん

レジェンドの功績を称えて・・・という話で思い出したのが、ディック・ザ・ブルーザー<そのお話、初めて知りました。ありがとうございます。

「あんなに活き活きした父を見たのは久しぶりでした」<テーズ夫人の言葉にも通じますが、レスラーにとってはリング以上の場所はこの世に存在しないんでしょうね。
引退した選手が平気で復活する気持ちはレスラーにしかわからない、と言いますが、まさしくそういう事なんでしょうね。

誰も知らないのか創作だったのかは不明ですが<こういった話はそのくらいの曖昧さがちょうど良かったりしますしね。

>太郎さん

まさにプロレス<単刀直入にありがとうございます。

ロビンソンとニックのエキシビジョンマッチはオブライトが食事会か何かで、自分達を当時のアメリカプロレス(WWE、WCW)の選手と一緒にして欲しくないと言ったのがきっかけだったと当時の週プロに掲載してました。
しかし、一年後にそこで活躍していた、ベイダーが参戦するとはねえ。

何年か前のノア中継を観てたら、高山選手がロビンソン流の股裂きを相手に決めてました。 本で技は知ってたけど、ロビンソンに教わった技何だなあと思ったりしました。

>通り菅井さん

オブライトが食事会か何かで<そうでしたか。そっちは私、知りませんでした。
当初ゲーリーはナッシュビルの道場にはあまり出入りしていなかった印象もありますんで、意外な事実ですね。

一年後にそこで活躍していた、ベイダーが参戦するとは<現役の世界王者でしたし、リスクの高い場所によくぞ出て来ました。
そのあたりの人間模様も面白いですよね。

高山選手がロビンソン流の股裂きを相手に決めてました<自伝なんかを読むと、この記事のインタビューとは逆にロビンソン先生の指導がスキルを高めた…みたいな事を言ってますよね。
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