殿様と侍~ベルギーで塩辛を~

1976年のパキスタン遠征(参照:アノキ・ペールワン~前編~~後編~)、
猪木の側にはいつも藤原

1978年の欧州世界選手権シリーズ(参照:欧州“殺し”紀行~eins~~zwei~~drei~~vier~~finale~)、
藤原を帯同した猪木

そして一連の格闘技世界一決定戦と、

常にアントニオ猪木の側には、

“影武者”藤原喜明の姿がありました。

それは単なる師弟関係を超えて、

命を預けたパートナーという信頼関係だったと思います。

アントニオ猪木50Years (上巻) (B・B MOOK 664 スポーツシリーズ NO. 536)
 アントニオ猪木50Years(上巻) より

藤原
『危ないところへ行く時は藤原だ』っていうのがあったみたいだからね」


猪木がそこまで寄せる信頼感と、

藤原が全うした“弾除け”の役割。

藤原自身のインタビューから、

読み取ってみましょう。



猪木の歴代の付き人で、

その在任期間が最も長いのが、

まさしく藤原です。

通常は若手から中堅にランクアップすると同時に、

そこから卒業していくものなのですが、

藤原
「オレがどうじゃなく、猪木さんがオレのことを使いやすかったんじゃないの? オレはキッチリしていたからな。カバンの中の整理整頓にしてもそうだし、時間は絶対に守って遅刻しなかったし。いや、オレはそれが普通だと思ってた。そりゃ、大変か大変じゃないかっていったら大変だよな。でも、その大変なことをやるのが普通っていうかな」


一般社会の中で常識と言われる事も、

プロレス界においては非常識に変わる場合もあります。

しかし自らを“非常識”という猪木と、

入門前、数多くの職業を経験してきた藤原は、

実に馬が合ったという事でしょう。

辺境の地へお供する時の、

心境はどうだったのでしょう。

藤原
「そりゃ必死だよ。要するに、オレが新日本プロレスをしょってるんだっていう使命感、だよね。恐怖心よりもそっちの気持ちの方が大きかったな」

「オレは基本的に外国が好きじゃなかったんだよな、食い物は合わないし。若いと外国に行きたいみたいに思うんだろうけど、オレにはまったくそういうのがなくて、できれば日本にいたかった。でも、猪木さんに来いって言われたら、そりゃ仕方ないわな」


奉仕の心? 愛社精神?

猪木と会社に対する当時の自身の役割を、

藤原はこう表現しています。

藤原
「でも、サムライはそういうもんだったんじゃないの?」

サムライの世界でいう殿様に対する気持ちだろうな。だから、口でどんな魅力だったのかっていうのは言葉にしづらいけど、オレにそこまでの覚悟を持たせてしまうほどの魅力って言ったらわかるだろ?」

「見返り? そんなものは初めから求めてないですよ。オレには必要とされているかどうかしかないんでね。猪木さんに必要とされていれば、それに応えるまでであって、その代わりこうしてほしいなんていうことは考える方がおかしいだろ」


猪木の魔力というのは、

関わったどんな人をも魅了してしまう。

それを誰よりも至近距離にいた、

藤原が最も体感していたんですね。



海外マットに参戦していく猪木に対し、

当然、表のリングのみならず、

“裏”のリング…スパーリングの申し出がある訳です。

藤原
「現地にいって、いきなり地元の挑戦者みたいのが来て『おい、相手してやれ』ってやらされるわけですよ。まあ、みんなオリンピッククラスぐらいのやつだったけどな。そういう腕に自信のあるやつらが、日本から来た英雄とやって名をあげようとするわけだ。でも、猪木さんは大事な試合があるから、それでオレが代わりに相手をしなくちゃいけない。それで“いかれる”わけにはいかないからキッチリ決めて。(略)でもって、オレが『猪木さんは私の100倍強いんです』と言ってチャンチャンだからね


これ(参照:ストロングスタイル原理主義)、昭和新日において、

本当に実践されていたんですね。

しかも「10倍」じゃなく「100倍」でしたか…。

さてハードな海外ツアー…特に欧州遠征は、

猪木だけではなく藤原にも過酷だった様です。

藤原
「猪木さんは飛行機で移動してホテルに泊まったけど、私らはデッカいトレーラーのバスで1ヵ月。(略)寝泊りもそのバスの中。試合終わって、十何時間走りっ放しで次の国に入る。オレはずっと寝てたけどな」

「旅っていってもバスが着くまではどの国にいってるのかさえわからない。今なら日程を把握して、地図を持っていったりするんだろうけど」


カメラも回っていない電波少年みたいな事を、

70年代にすでに藤原は経験していた訳ですね。

しかも芸人でもないプロレスラーですよ。

旅の一番の思い出は、

日本では何気ない日常でした。

藤原
「アントワープだったか。猪木さんに『オレの泊まっているホテルへ来い』って呼ばれて。そこで日本料理店に連れていってもらったんだよなー。あの時の塩辛とご飯はうまかったなあ…サイッコーにうまかった。いまだに鮮明に憶えているわ。ケン田島さん(通訳)と古舘伊知郎さんもいたっけな」


昭和新日の功労者の一人、ケン田島と、

テレ朝の新人、古舘伊知郎アナも、

旅に同行していたんですね。

そういえば古舘アナの実況デビューが、

“シュツットガルトの惨劇”だったんですよね。



この欧州遠征から7年後、

猪木と藤原はそれぞれ、

新日とUWFの代表として、

大一番を闘いました(参照:猪木なら何をやっても…いいんです。)。
藤原の頭突きを、

まさに二人しか“絶対に表現出来ない世界”でした。
角度が違う1

それは殿様である猪木に対する、

藤原の普遍の忠誠心から来ています。

藤原
「そりゃそうだろ。猪木さんは会社をしょって、プロレス界をしょって、全部しょって臨むわけだよ。今のやつらが何を言おうが、猪木さんのアレと比べたらぬるいぬるい


“猪木のアレ”を常に最前線で見て来たのは、

口を真一文字に結んだサムライ、

藤原喜明、ただ一人ですから。
セコンドは“影武者”藤原喜明

猪木、藤原組

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tag : アントニオ猪木 藤原喜明

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成る程ねえ。たとえ袂を分かっても師弟の絆は変わらないか。
95年の「猪木ファイナルカウントダウン」の試合後の涙の正座はその師弟関係を物語っているのでしょうね。

何か、長州、藤波の二人より濃そうだな。

>通り菅井さん

95年の「猪木ファイナルカウントダウン」の試合後の涙の正座<ありましたね。
あの時は一瞬で二人共に昔に帰ったそうです。スパーリングを思い出したと。

何か、長州、藤波の二人より濃そう<三者三様でしょうね。
佐山も前田も高田も三銃士も、それぞれの濃さがあるんでしょう。
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