Yoji Anjo Is Alive vol.18~十年間、そして十年後・其の四~(1995~2004)

其の参の続きです。

「プロレスを十年間真面目にやってきた」安生洋二の道場破りは、

返り討ちという結果に終わってしまいました。

日本のプロレス界に衝撃が走る中、

安生はロスを離れると当初から予定されていたイギリスへ飛び、

イスラエル遠征(参照:幻の映像…遂に目撃!!~其の弐~~其の参~)と同時進行で企画されていた、

英国遠征の打ち合わせの仕事を済ませてから帰国します。

その後、謝罪会見を開き、

大バッシングの中で年を跨ぎ、

1995年1.16 日本武道館のリングで改めてファンへの報告と謝罪を敢行しました。

鈴木
「ファンの皆様には期待を裏切る形となってしまいました事を深くお詫び申し上げます。当初、安生も『“廃業”という形で責任を取りたい』と申しておりましたが、その後、安生の考えとして『今回の責任を取ると言う事は、辞めて取れる事ではない! グレイシーともう一度闘い、それを倒すことが本当の責任を取る事ではないか?』…」

安生謝罪1

『ただ、次のもしもの事があったなら、“廃業”する覚悟であるから、もう一度だけチャンスが欲しい』と申し出を受け、我々もこの引退を賭けた安生の決意をバックアップする事となりました」
安生謝罪2

安生
「えー…大きな事を言って、負けてしまいました。皆様、申し訳ございませんでした。えー、一度は辞める事により責任を取ろうと思いましたが、本当の意味で責任を取るというのは、もう一度ヒクソンと闘い、勝つ事だと思います。…先日、ヒクソンと直接会い、前向きな返答をもらいました。…もう一度だけ僕にチャンスを下さい!! 皆様、よろしくお願いします!!」

安生謝罪3

怒号渦巻く武道館。

だがこれが、再び安生がグレイシーとリングで対峙する、

十年後へのプロローグだったのです。

リングで口にした通り、

安生は再びヒクソン・グレイシーの下へ飛び、

“道場破りのお詫び”と“再戦の交渉”に臨みました。

意外とヒクソンの反応は良かったのですが、

具体的な進展がないまま時間は進んでいき、

因縁の日本プロ・シューティングが、主催する『VALE-TUDO JAPAN OPEN1995』へのヒクソンの出場を発表。

同時に「安生が出場するならば、1回戦でヒクソンと対戦させてもいい」との発言も出ました。

願ってもいないチャンスの到来に安生は即刻出場を決意しますが、

Uインターは主催者側から直接のオファーがない事を理由に見合わせます。

さらに当初予定されていた4.9神戸大会が、“阪神淡路大震災”の影響によって中止。

4.20名古屋(参照:決意のオエッ~前編~~後編~)にスライドした事で、微かな可能性も消えました。

当時は「VTJと同時開催する事でUインターはヒクソンから逃げた」と言われましたが、

実はこの日程、ベイダーのスケジュールの都合からでした。

改めてヒクソン戦実現のチャンスを狙ったUインターは、

ヒクソンが主張する“中立の立場”として、

週刊ゴング、ゴング格闘技の出版元『日本スポーツ出版社』に、

興行の開催を申し出ます。

『横浜アリーナでゴング主催による安生vsヒクソン実現か!?』という噂も出ましたが、

日本スポーツ出版社は「うちはあくまでマスコミ。興行はしない」との結論で幻に。

これも当時、『週プロ=ベースボールマガジン社』が打ったドーム興行で、

週プロを糾弾したゴングが、

“興行を主催すれば立場的に矛盾してしまう”のが理由だったと思います。

あのドーム興行がなければ…これはわかりませんね。

いずれにしても、この後“安生vsヒクソン”の話題が、

再び上がる事はありませんでした。



それからの安生は“ヒクソンと闘ったプロレスラー”として、

当時まだ黎明期だった総合格闘技の舞台に、

度々、かり出されました。

ミスター200%としてブレイクした新日との対抗戦の最中の1996年

シュートボクシングの1.27横浜文化体育館で、

当時の世界ホーク級王者、マンソン・ギブソンとアルティメット特別ルールで対戦し、

20分時間切れドロー。
安生vsM・ギブソン

ホームリングにおいては、

当時のバーリトゥーダーでは絶大なネームバリューを誇っていた、

“怪人”キモと数試合の契約を結び、

桜庭、高山を連破して来たところで、

最後、同年 9.11神宮球場で、

安生が迎え撃つ事になっていましたが、直前にドタキャン。

急遽、代役のデビッド・ベネトゥーとのアルティメット特別試合は、

アキレス腱固めで秒殺のVT初勝利。
安生vsD・ベネトゥー

同年11.17 有明コロシアムのVT興行『THE U-JAPAN』では、

日本初の金網オクタゴンの中で、

後にリングスに参戦するブラジリアン柔術のジアン・アルバレスと、

30分以上の消耗戦の末、パウンドの嵐にタップアウト負け。
安生vsJ・アルバレス

年末に電撃的にUインターが解散した後は、

自身の経験をベースに新団体キングダムのルールを作成し、

プロレス団体初の“オープンフィンガーグローブ”を導入します。
そしてKINGDOM

桜庭和志がブレイクした1997年12.21 横浜アリーナの『UFC-J』(参照:粉雪が舞い散る12月~Case by SAKU~)においては、

ヘビー級トーナメント準決勝で“喧嘩屋”タンク・アボットと対戦し、

3-0の判定負け。

キングダムも崩壊した後は流浪の格闘人生を送り、

『K-1 JAPAN』参戦や全日本プロレス、WJプロレスと転戦しながら、

日本開催のUFCやDEEPで3戦して2敗1分。

総合格闘技において結果を出す事が出来ないまま、

ここで安生は一つの区切りをつけます。

安生にとってのバーリトゥードとは何だったのでしょうか?

96年のアルバレス戦後に、

当時、ゴングのインタビューで語っています。

安生
「UWFルールなら、本当に自由な攻防が出来るわけですよ。逃げるスキがあるから、ロープ・ブレイクもありますし、切り返されても、すぐ次の展開へって思えるんですけど、(VTは)それより先に押さえ込まれる不安ていうのが非常に大きいですからね。そういう点では、すごく萎縮した闘いなんですよ。決して魅力的なものではないし、自分も魅力を感じているわけでもないですから」

「もうこうなったら、勝って“ざまあみやがれ!”って言うまでは止められませんよね。(一回勝ったら)OKですね。ま、OKとなるかどうかは、勝ってみないとわかんないですけど、とりあえず勝たないと。(略)ただ僕の中では、その中でも強いと言われるブラジルの選手を倒して、初めて、自分の気持ちが晴れると思いますしね」


理想のスタイルとしてのUWFルールがありながら、

個人的な落し前としての、

ブラジル人バーリトゥーダーへの雪辱がテーマだった様です。



流れ流れて2004年にはハッスルのリングに辿り着きます。

高田モンスター軍アン・ジョー司令長官として、
アン・ジョー司令長官

生まれ持ったエンターテイナーぶりを発揮する中、

“運命”はまたしても、

突然やってきます。

次回、其の伍…最終章といきましょう。

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tag : 安生洋二 ヒクソン・グレイシー マンソン・ギブソン デイブ・ベネトゥー タンク・アボット UFC

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>○○○さん

いつも秘話をありがとうございます。

K氏<ヒクソンを宙に舞わせた方ですね?
確か安生とはWJでユニットを組んでいた記憶があります。

私の記事自体が素人丸出しですので、時には厳しくお願い致します。
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Author:紫レガ 
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