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宮戸語録 vol.32~CACCの考古学~

こちらも久々、『宮戸語録』の再開です。

近頃、疲れた身体を癒す為にYOUTUBEを観る連夜(笑)、

中でも『菊田早苗TV』は面白いです。

話のテーマと顔ぶれが素晴らしく、

最初のゲストが宮戸優光でして、
宮戸×菊田トーク1

これがまた『レスリング』と『CACC』の本質を語る豪華版。

話の初めは1974年のアントニオ猪木vsビル・ロビンソン

小学6年の宮戸少年がロビンソン先生のレスリングに触れたところ(参照:宮戸語録 vol.28~至高の遺伝子~)から。
ロビンソンが一瞬ケンカ殺法の構え

やがてプロレスラーとなった宮戸少年は、

まず初めにUインターで“鉄人”ルー・テーズと巡り会います。

 YOUTUBE 菊田早苗TV より

宮戸
「UWFインターナショナル時代の1年目の終わりですね。1年目の終わり、高田さんとボクシングのバービックの試合があったんです。その時に、まぁルー・テーズさんから…ルー・テーズ、鉄人ルー・テーズ。要するに向こうからコンタクトがあったんですよ。その試合のレフェリーをどうしてもやりたい、と。まぁ当時70代半ばぐらいなってたんで、73ぐらいだったのかな? それで『ちょっとレフェリーは難しいだろう』ってことで。向こうから連絡下さったんだけど、とにかくお呼びして、特別立会人という形でウィットネスをお願いしたいということで」


「『いやぁルー・テーズさん、あのー私は実はビル・ロビンソンという人に興味があるんだけど、ビル・ロビンソンさんはどうされてるんですか?』って、そういう質問したんです。『あ、ビリーなら今でもよく連絡取ってるよ』ったら、『いやぜひご連絡下さい』と。それが12月の暮れだったんだけど、91年の暮れだったんだけど、3月にルー・テーズさんが向こうの名レスラー、名ボクサーたちの、そういうOBの会があったんですよ。(略)カリフラワーアレイクラブって、今あるのかな? そういうカリフラワーアレイクラブの会長に就任することになって行ったんですよね。そこで初めてダニー・ホッジさんとかね、お会いして、『なるほど古い人ってのは凄えなあ』と」


宮戸×菊田トーク2

Uインターが大勝負を賭けた『格闘技世界一決定戦』に、

協力を表明したのが鉄人テーズでした。
高田vsバービックを語るテーズ

当時、テーズは新日本とパイプがありながら、

プロレスリング復興を掲げたUインターの姿勢に共鳴。

さらにテーズとの縁から“鳥人”ダニー・ホッジにつながりました。
Uを語るホッジ

そこから宮戸は自らのルーツである、

ビル・ロビンソンとの運命に導かれていく訳ですね。
伝説のシュート両氏

宮戸はロビンソンのCACC魂に、

点火するには十二分なオファーを出します。

宮戸
「5月に横浜アリーナで大会あったんですよ。そこにどうしてもロビンソン先生を呼べないか? って話して、エキシビジョンマッチにね。で、初めて道場にその時来てくれたんですよ。それで『ぜひコーチしてくれ』って先生にお願いして。そしたらね、僕らが今まで教わったレスリングと全く違ったんです」


宮戸×菊田トーク3

どちらかというとUWFの技術は、

カール・ゴッチさんがベースでしたが、

同じルーツでありながらロビンソンのテクニックには、

大きなカルチャーショックを与えられたのです。

宮戸
「それまではもう“捻じ伏せる”っていうか、もうガガッガッガッガッガ! っていう、そんなレスリングを、まぁやられてたし、教わってた様な感じだったの。
(ロビンソンのレスリングスタイルは)もうフワフワしてる様な感じ。こう“あやとり”をほぐす様な感じで。『え!? こういうの、これがレスリングなのかな?』って。自分が知ってた触れてたものとは全く(違う)。それで『コーチお願いしたい』ってんで、Uインターのアメリカで道場出来てたんで、当時ロビンソン先生がラスベガスで、もうプロレス界と全く関係なかった。『その仕事を辞めて、ぜひ来てもらいたい!』ってこと言ったら来てくれたんですよ。辞めちゃったんですよ、仕事。(略)当時53歳。で、ラスベガスからテネシーに引っ越してくれて。ま、そっからの付き合いですね、それが92年」


宮戸×菊田トーク4

完全にロビンソンの技術の虜となった宮戸は、

Uインターをグローバル化せんとテネシーに道場を構え、

コーチとしてロビンソンに常駐してもらおうと計画。

そしてロビンソンもまた、

出会って間もない宮戸の熱意に応えました。

宮戸
「で、僕が95年までUインターやったんです。で、その95年が終わった後に…95年に新日本とUインター(対抗戦)ってのがあって、Uインターが負けて、その後に高田さんとヒクソン・グレイシーってのがあったんです。その時に、まぁ何ていうのかな? あのー…『あれ?』と思ったんですね」


アメリカマットで眠る若き才能を、

ロビンソンの指導によって開花させるために、

Uインターは決して潤沢ではない資金を注いでいきましたが、

団体は94年末から転落し、遂に96年末で解散。
Uインター解散

その2年の間に宮戸は、

追い出される様にUインターを脱退し、

表舞台から姿を消しました。

団体はキングダムに変わり、

一世一代の大勝負を賭けた2度の高田延彦vsヒクソン・グレイシー
タップ!!

高田延彦が歴史的連敗を喫したことで、
高田またしても一本負け

止まっていた宮戸の時計が、

再び動き始めました。

宮戸
「ただ、これビル・ロビンソンやルー・テーズやカール・ゴッチや或いはもっと古い人たちが、もしやったら同じ結果になったんだろうか? そこに非常に疑問が思ったんです。ロビンソン先生が僕らに伝えようとしたレスリングは明らかに僕らがやってきたものと違う、と。ロビンソン先生が知ってることをどれだけ知ってるんだろうと。何とかしたいなぁって中で、98年の秋ですね」


「もう僕、プロレス、95年に辞めちゃったんで。他また『週刊プロレス』をたまたま見たんですね、全然仕事は違うんですよ。そしたら“人間風車ビル・ロビンソン、上中下”みたいに流智美さん、ルー・テーズのマネージャーをやってたね、その週刊プロレスに3週間に亘って書いてたの、記事。その1回目、僕はたまたま入ったコンビニに見た週プロで見たんです」


もう、ここからは宮戸少年が23年前に宿した宿命、

動き出すまでのスピードはさすがといったところです。

宮戸
「『ところでルー・テーズさんどうしてんの?』って、そしたら『いやぁ来週日本に来るんですよ』って。そして僕は『ぜひ会わしてくれ』って。それでまぁそういう想いをルー・テーズさんに言ったんですね。それが10月か11月ですね、それで言ったらルー・テーズさんが『お前がそういうことを思い付いたのであればお前がやるべき仕事なんだろう』と。『もしそれが実現すればビリーにとっても、プロレス界にとっても、そしてお前自身にとっても素晴らしいことじゃないか』って、もうそこから1ヵ月ですよ、そこから決めるまで」


このタイミングで再びテーズと再会するんですから、

もうこれは宿命という以外ないでしょう。

ちなみにこの来日は雑誌『BRUTUS』で、


テーズが1998年秋に日本の各プロレス団体を観戦し、

忌憚なき感想を述べていくという企画のためでした。


企画の意図もあって基本的には辛口で、

高田vsヒクソンに「なぜ慣れない裸足で闘うのか?」とか、

橋本vs天龍には「これはタフマン・コンテストだ」と。

挙句の果てに三沢vs小橋という、

当時、日本一のカードに対しては、

「レスリングの動きがほとんどない」「立ち上がるときに背を向けてる。信じられない」

そして「ミサワは関節技を掛けられた際にタイツを上げていた。あり得ない」と。

これには三沢本人も「それは相手に対して“効いてないぞ”という駆け引きだよね」と反論。

当時は結構プロレスファンを賑わせたんですよね。


話が脱線しましたが、

このテーズとの再会が後押しとなって、

宮戸は高円寺に『UWFスネークピット・ジャパン』を開きます(参照:宮戸語録 vol.9)。

宮戸
「ジム経営をやりたかったんじゃない、僕は。これはビル・ロビンソンを招く、そしてCACCを自分自身が学び、そして次の世代に残したい。だからグレイシーがなかったら、逆にその発想もなかったかも知れない。で、まぁグレイシーに負けた何ていうのかな? 悔しさというか、こんなもんかっていう想いと、プラス柔術っていうものも、結局、日本になくなってた訳でしょ。要するに日本が失ってスポーツ化、競技化する中で、ある種捨ててしまった様なもんで。それが、まぁたまたま何人かの人によって海外に残ってたと。だから、まぁ、その歴史を見た時にキャッチアズキャッチキャンも同じだったんですね。当時はまだカール・ゴッチさんも生きてたし、ルー・テーズさんも生きてましたけど、あとイギリスにロビンソン先生の師匠格が、もうルー・テーズさんと一緒ぐらいかな? ちょっと下ぐらいだったのかな? それで、もうその人は現場で教えてませんからね。だからもう最後、現場で教えれるとしたらロビンソン先生で。もう、その人が亡くなってしまったら柔術よりひどい状況ですよ。もう誰も伝えることが出来ない」


「CACCを残したい。それからグレイシーに負けて、こんなもんかっていうね。その二つの想いがなかったら多分やってなかったですね」


ここから長きにわたりロビンソンは、

ヘッドコーチとして高円寺の住人となったのです。
ロビンソンのレスリング論

当時のスネークピットジャパン旗揚げ記者会見、

宮戸の涙が印象的でしたね。
宮戸×菊田トーク5

さて、菊田との対談では、

ここから宮戸のCACC講座が始まります。

ロビンソンの指導を受けた経験のある菊田が、

レスリングとCACCの違いを語りかけた瞬間、

宮戸のスイッチが入りました。

宮戸
「レスリングにプラスアルファじゃなくて、あれがレスリングなんですよ。歴史が逆ですよ。
(略)だから歴史を簡単にいうと、古代レスリングってのは数千年ですから。それこそ、このマークになってるね、これ。UWFのマークになってるあれっていうのはコブラツイストですからね。しかもこれ彫像なんだけど、紀元前の彫像なんですよ。だからあんなコントロールがあったこと自体もう古代にレスリングは完成してるんです、恐らく」

「まず古代レスリングがあるの。その後に紀元前600年くらいかな、そのくらいにパンクラチオンがあるから。パンクラチオンは当時、レスリングとボクシングを合わした様なものっていう記述もあるぐらい。要するにレスリングやボクシングはもっと古い訳。それこそ今の総合(MMA)以上に何でも有りですよ。目、くり抜いてもいいぐらいの世界でやっていた訳だから。だから、そういう中で古代レスリングがあり、パンクラチオンがあり、そしてその古代レスリングの一部がイギリスに行く。だから各地に散らばったと思うんです。この中でキャッチアズキャッチキャンというのはランカシャー地方の方言なんですよ。これは方言で英語わかる人でも訳せない、キャッチアズキャッチキャン。そうだなぁ、アメリカの英語に合わしたら、例えたら『キャッチミー,イフユーキャン』なの。要するに『捕まえれるもんなら捕まえてみろ』『やれるもんならやってみろ』。そんな意味の方言が、そのまま競技になってる」


後方にあるUWFのトレードマークを指差して始まった、

このマシンガントークは圧巻の一言。

私そもそもあの絵って、

パンクラチオンのものだと思っていました。
UWFロゴマーク

それより遥か以前の、

古代レスリングだったんですね。

しかもコブラツイストだというのですから、

二度びっくり。

宮戸
「古代レスリングが色んなとこに散らばってんの。その中にグレコローマンとか色んなスタイルあるじゃん、その中でCACCは、その何ちゅうの、古代レスリングがランカシャー地方でちょっと“特殊発展”した。こういう考え方ですよ。(ランカシャーレスリングというのは)キャッチアズキャッチキャンですよ、おんなじおんなじ。そのCACCがアメリカに渡ったんです。それがプロレスだったんだから。そしてアマレスになったんだから。だってアマチュア競技って、そんな歴史がないもん。そうでしょ?
(略)だから最初はプロレスリングじゃないの、プロフェッショナル・キャッチアズキャッチキャンだったの。てかプロっていう名前じゃなかった。人前でやるのが…プロが先だから。もうレスリングってのはプロだったの。それがプロレスリングってのが20世紀くらいになって、それからアマチュアレスリング。ロンドン・オリンピックまではキャッチアズキャッチキャンだった。ロンドン・オリンピックからレスリングになった。フリースタイルに」


宮戸のレスリング考古学全開ですね!

そもそもプロが当たり前で、

プロとアマチュアという概念はなかった、と。

さらにここから濃厚な“プロアマ論”が展開されますが、

全て拾うと中編、後編まで続きかねませんので(笑)、

次にいきます。

宮戸
「プロレス観てて『あれは元々アマレスの技だから』っていう言葉使う人いるでしょ? これもう完全に歴史誤認ですよ。アマレスの技は元々プロレスの技なんだから、全部、歴史から見て。だから柔道の技は、柔術を観て『あれ柔道の技だ』っておかしい訳でしょ? 柔術の方が古い訳だから」


レスリングの歴史においては、

あくまでもプロが生まれてから、

やがてアマチュアのスタイルが出来上がったと。

だからオリンピックで世界中が観ているあの技も、

元々はプロレスの技術の応用なんですね。

今の両ジャンルが置かれている立場を見ると、

嘘みたいな話になっちゃいます。



ロビンソンと10年、

共にスネークピットジャパンで歩んだ後、

宮戸はIGFという団体と巡り合います。

それは35年前に宮戸少年が観た試合で、

ロビンソンの向かい側に立っていた、

アントニオ猪木との邂逅でもありました。

宮戸
「猪木会長のところでもIGFで4年やらしてもらいましたけどね。何か4年も仕事出来たのはきっとロビンソン先生ともジムが10年目だったんですよ。だからロビンソン先生と92年に会ったから10数年、まぁコーチで10年。この10年の時間なかったら、まぁとても4年務まらなかった。若いときは何となく自分の中で自信を失うことの方が多かったんだけど、まぁロビンソン先生との10年で…その、まぁ10数年、トータル20年。92年から亡くなるまでで、ちょうど20年だったんですよ。その20年によって、何ていうのかなぁ、この仕事の中での自信を持たせてもらったっていうか、それがありましたね。逆にそのほとんどはリング降りてからなんで、現役の時、何やってたんだって話にもなっちゃうんだけど、猪木ロビンソン戦で始まった僕のある種、人生の中心部が本当にまた最後そこに集約されていたな、って感じしますね」


ここで宮戸少年は自らの原点である、

猪木とロビンソンを再会させた訳ですね。
IGF首脳陣

まるで映画の様な話ですけど、

ロビンソンの最期にまつわるエピソードも、

映画のラストシーンみたいな趣なのです。

宮戸
「だから僕が最後のね、ロビンソン先生と亡くなる前に最後に日本で喋ったのは、ロビンソン先生がね、あのとき本当、不思議なんだけど『ミヤト、色々ありがとう』って言ってくれたんですよ。『もし俺をUWFIの時に俺を声掛けてくれなかったら、今の俺の人生なかったよ。ありがとう』って。そのとき僕は『そうじゃない。俺が小学校6年生の時にあなたとミスター・イノキの試合を観て僕は…だからサンキューってもし僕に言ってくれるなら、それはあなた自分自身に“ありがとう”って言ってんのと同じだ』っつって、『ありがとう』って」


この話聞いたとき、

胸が熱くなりましたね。

敢えて繰り返しますが、

まるで映画のラストシーンですよ。

さらに猪木と交わした会話の中で、

ロビンソンに対する猪木の想いが伝わります。
宮戸×菊田トーク6

宮戸
「まずIGFで猪木さんとこにご挨拶行った時に、たまたま同席した人が『彼はビル・ロビンソンを呼んで、日本でロビンソンが10年以上にわたって日本に呼んでるんですよ』って話を。そしたら猪木会長が『ありがとうございます。本当は俺なんかがやらなきゃいけないことなのに』って。たった短い、それだけの言葉だけど、『えっ!?』って。それを僕『ありがとう』って言われるのかな? って、しかもそれを猪木会長に言われたことに驚きと、そのスタンス凄いなぁって。『ありがとうございます』って要は自分たちと仲間っていう意識が」


60分闘ってなおも闘志の消えない両雄

さらに日本のレジェンドたちも、

宮戸に対する感謝を口にしています。

まずは坂口征二
坂口のリストロックに、

宮戸
「あと坂口征二さんにお会いした時に、坂口さんが『おい宮戸ありがとうな』。『え??』って、何だろうな。『ロビンソンが世話になってよ』。…だからそれもびっくりした。だからそん時も『えー! この人も、やっぱり坂口さんもこういうスタンスで業界、選手たちを見てた人だったんだ』
(略)


そして天龍源一郎
天龍とロビンソン

天龍は自らの出世試合が、

ロビンソンとのタッグだったのです。

宮戸
「もう一人が天龍源一郎さん。天龍さんがトークショーでね、このジムに来て頂いて、
(略)そのトークショーが始まる前に、『今日はこのトークショー始める前に、このジムを作ってロビンソンを10年も日本に置いてくれた宮戸選手に感謝したいと思います』って」


現役時代は自らの強さを見せつける様な、

わがままな試合ぶりで、

周りから嫌われていたという噂のロビンソンですが、

同じく強いレスラーたちからは、

尊敬と共に仲間意識があったんですね。
宮戸×菊田トーク7

動画はこの話で幕を閉じますが、

他にも興味深いエピソードやCACC論が、

数多く語られています。

ぜひ、皆さんもご視聴下さい。

 菊田早苗 宮戸優光 1/4【プロレス】新日本 UWF


 菊田早苗 宮戸優光2/4【プロレス】新日本 UWF


 菊田早苗 宮戸優光 3/4【プロレス】新日本 UWF


 菊田早苗 宮戸優光 4/4 【プロレス】新日本 UWF回想


そして遅ればせながら宮戸代表、

C.A.C.C.スネークピットジャパン設立20周年、

おめでとうございます!!!

関連記事

tag : 宮戸優光 ビル・ロビンソン アントニオ猪木 ルー・テーズ 菊田早苗

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Secret

No title

私は船木チャンネル派(笑)

田村潔司も始めてますねー

>平田さん

私は船木チャンネル派(笑)<そうでしたか。船木のも確かに内容濃いですよねー。本人が考えてるとしたら凄いと思います。

田村潔司も始めてます<気がつけば宣言通りやってますね! あのサングラスはミステリアスですけど(笑)。

試合近づいてますね! どうかベストコンディションで臨んで下さい!!

No title

ロビンソンに対するありがとう、という話。

前田日明が西村に対して「ゴッチさんが世話になってありがとう」という話もありましたが、坂口や天龍あたりからもそういう話があったのは意外でした。
ちなみに馬場さんはロビンソンが亡くなった話をうけて
「ロビンソン?そういうレスラーもいたね」
っていう感想だったそうです 笑
しかし、ロビンソンに限らず最近では宮戸主導でキム・ドクを呼んで現役プロレスラーを対象にした無料の教室を開いたり、古いレスラーによるコーチングっていうのは今のレスラーにもそうですが技術を伝えていくという部分でも大切かも知れませんね。


菊田、現役の頃はプロレスに対するものいいが癪に障る気に食わない選手でしたがちょっとチャンネルを見てみます。

No title

そういえば全く余談ですが「タイツを直す」というのは同じ全日系のレスラーにはとても多くて、例えば秋山が小橋にエプロンからスープレックスされて、リング下に落とされた時なんかにも落とされた直後にやってたりします。
このあたりなんかは、余裕を見せるというよりは完全にクセですよね。
ルー・テーズも同じことを見ていて思っていたんだなぁと思うと、自分もちょっとだけ鉄人になれたのかなと思いました(プロレスファンの悪いクセ)

>ナリさん

前田日明が西村に対して「ゴッチさんが世話になってありがとう」という話…坂口や天龍あたりからもそういう話があったのは意外<西村の場合は本当に損得抜きの関係だったらしく、そういう部分がゴッチさんも心地良かったんでしょうね。
昭和のレスラーは「はじめに強さありき」ですからね。尚且つ集客力も持っていたロビンソンには敬意を払っていたのでしょう。

馬場さんはロビンソンが亡くなった話をうけて「ロビンソン?そういうレスラーもいたね」<そこら辺りはちょっとガセのニオイがしますね。何せ馬場さんの方が先にお亡くなりになられていますから。

宮戸主導でキム・ドクを呼んで現役プロレスラーを対象にした無料の教室を開いたり<戸口とのつながりはどういうアレだったんでしょうね? ちょっと意外でした。

菊田、現役の頃はプロレスに対するものいいが癪に障る気に食わない選手<色々ありましたもんね。でも元々がプロレス少年なんですよね。
動画の中には堀江ガンツさんとの対談もあって、そこでいろいろと弁解していますね。

「タイツを直す」…秋山が小橋にエプロンからスープレックスされて、リング下に落とされた時なんかにも落とされた直後にやってたり<無意識の意識というか、人間ってそういう本能みたいのはあるんですよね。藤原組長が猪木のスリーパーで落とされた時も無意識に鼻を掻いていた…とか。

自分もちょっとだけ鉄人になれたのかな<プロレスファンとはある日突然、鉄人になったり神様になったり殺人狂になったり鳥人になったりする生き物なのであります。
紫レガとは?

紫レガ

Author:紫レガ
47歳のプロレス話


「昔はインターネットを旅してましたからね。毎晩ブログでね、今みたいにSNSがいっぱいある訳でもないし、終わったらみんなブログでね、一日の終わりにUPして。今こんなこと言ったらエラいことになりますけどね、よく寝不足になったね、部屋でPCを打ったりね。…いや、そういう歴史はちゃんと教えとかないとね」

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