『よりによって一番弱いヤツ』の真意(1998)
去年“私小説もどき”でお茶を濁しました(参照:復刻版・私説PRIDE.1)が、
PRIDE.1から21年、PRIDE.4からはちょうど20年目の今日、
今年もこの試合に関連した記事をUpします。
登場人物はもちろん高田延彦と、
師であるアントニオ猪木であります。
師弟は袂を分かってからも、
様々な紆余曲折を経ながら、
再会と別れを繰り返して来ました。
時は1998年8.27、再会の地はロサンゼルス、
前田日明氏との対談(参照:背中合わせの二人~後編~)も収録された、
この一冊で再会を果たしました。
当時の二人の立場を簡単に記しておくと、
猪木はこの年の4月に現役を引退(参照:神と信者たちへの劣等感 、 今日という日)。
高田は前年10月に歴史的敗北(参照:高田の耳打ち、田村の涙)を喫し、
この年の10月に再戦(参照:あと3分だけ…~前編~ 、 同~後編~)が決まっていました。
引退後、アメリカに住まいを移した猪木と、
ヒクソンへのリベンジの為にビバリーヒルズ柔術クラブで特訓中の高田。
緊張の再会シーンからです。
T 多重ウェィブ より
高田「ご無沙汰してます(と、緊張しつつもさわやかに)」
猪木「こちらこそ。元気ですかーッ!!」
高田「はい(笑)」
猪木一流の挨拶ですぐに高田の顔がほころびます。
ヒクソンに敗れた事で高田が世間から受けた大バッシングも、
猪木にしてみれば『かつて自分が歩いてきた道』。
最も大切なものは“自分自身の満足感”だと言うのです。
猪木「結局ね、ファンもいるし、周りの人間もいるけれど、究極は自分が満足できればいいわけね。でも、それに惑わされて、マスコミはいろんなことを書くだろうし、俺たちもいってないことまで書かれて、そういう部分にまで腹を立てたりもしたよね。まあ、それはいま現在もそういう業界だけど、ただ、ある部分で俺はそういうことを通り越させてもらう、きっかけをつくるチャンスをもらったということかなあ。結局は『アリと闘った』ということが最大の事件であり、勲章というのか。確かに不評だったんだけどね(苦笑)。けど、それ以上に深いアリとのつながりができたし、アリから教わったことというか、闘いを通じていろんなプレッシャーとの闘いをさせてもらった。それで、最終的に得たものっていうのは相手を認めるということ。勝ち負けとか、それは結果論だからしょうがないもんね」
高田「はい」
猪木「要するに、自分がやろうと思ったことをやれるかやれないか、ということが最大のことでしょう。ほとんどの人がやれないし、やらなければ、べつに批判も受けないし。だから、一瞬一瞬、輝いてというかね。結局は自分自身が『生きてるよ、やってるよ』っていう瞬間をいくつできるかだと思うんだよ。連続してやれるっていうことはないだろうけど、それをいくつ刻めるか。そういう意味では、絶対いいかたちになって心のなかから湧き出てくるわけだから、その時のプレッシャーはキツくても、あとになって相手を認めることによって自分自身が輝いていくし、いいんじゃないかな。それが最大の幸せなんだよ」
「相手を認める」こと…ですか。
なかなかヒクソンを認める訳には行きませんでしたが、
現役引退後、高田はヒクソンを悪く言う事は一切ないですよね。
そして50を過ぎて、最近柔術を始めたとか。
「自分がやろうと思ったことをやれるか」というのは、
確かに猪木イズム最大のテーマの様な気もします。
言葉を変換するなら『格闘ロマン』と言うべきか。
ところが『自分がやろうと思った事を実際に“やった”』弟子は、
実のところほとんどいなかった訳です。
高田はそこを本当に踏み越えた数少ない弟子ですので、
濃い部分の猪木イズムを継承していたと言えるでしょう。
しかし本家本元の猪木としてみれば、
そこに出て行く以上は、
戦略や戦術がなければ物足りないのです。
そこでプロレス史に残る名言が飛び出しました。
猪木「あえていわせてもらうなら、これは多少説明が必要なんだけど、ズバリいうと、対ヒクソンに関して(高田が)作戦を立ててなかったと。無策すぎたというね。きっとキチッとした作戦を立てていれば、また違った戦法ができたんじゃないかということだね」
高田「はい」
猪木「たとえば高田がレスリングの技術でいけば、また違ったんじゃないかとかね。それをあの時はキックを主体とした戦法というかたちでいったように見えたから、それでは一番こちらの弱い部分を『どうぞ』と差し上げてるようなものじゃない。それでは一番弱いヤツが出ていったのと同じだよ、という意味だよね」
PRIDE.1直後、高田敗戦のコメントを求められた際、
猪木は「よりによって一番弱いヤツが出て行った」と言い放ちました。
これは当時、私もショックでしたね。
どう考えたって、あの頃の高田が「一番弱い」訳なかったですから。
一線を退いたとはいえ、
あの時点でも世間が見るプロレスの象徴は、
BI砲の二人でした。
二人ともギリギリ現役レスラーでしたしね。
そんな立場の猪木は、
ジャンルとしてのプロレスを守るため、
極論を言い放った訳です。
猪木「(※出て行った以上は)プロレス界というものを背負っちゃうわけだから、そうすると、さっきいった言葉と矛盾しちゃうかもしれないけど、確かに自分自身が負けただけのことだけれども、背景がそれを許してくれないじゃない。そうすると『プロレスが負けた』ということになるわけだから、それはそういうコメントをするしかしょうがない」
高田「はい」
猪木「そりゃあ勝ってくれればいうことはない、一番いいよ。でも、負ければ…。しかし、また新たに立ち上がるわけだから、それはそれでいいんじゃないかな」
他の誰でもない猪木自身の口から放たれた一言は、
高田もストレートに受け止められた様子です。
対談中ほぼ「はい」と聞き入れるだけでしたが、
あの発言に対する想いを語り出すと饒舌です。
高田「僕は、そのコメントを(記事で)読んだ時には、なんとも思わなかったんです。猪木さんの言葉はバーリ・トゥードじゃないですけれども(笑)。ただ、その意味合いを考えた時に、対外的な猪木さんのコメントとして『実はあいつはプロレス界で一番弱いヤツなんだよ。そんなヤツに勝ったってしゃあないだろう』という、僕に対する憎しみではなくて、プロレス界に対する愛情みたいなものを感じたんです。だからプロレス界を救う猪木さん流の言葉だというのはわかりました」
とにかくあの当時、
高田vsヒクソンの結果が出た直後は、
猪木といい前田氏といい、
様々な怒りが充満していましたよね。
“怒り”が持つパワー程、
我々の心を動かすものはありませんよね。
猪木の怒りが数々の名勝負を生んだ1970年代、
高田は一人のファンとしてリングを見つめていました。
猪木のベストバウトを一つ挙げる様に促されると、
すぐにプロレス少年へとタイムスリップしてしまいました。
高田「ひとつだけっていうのは難しいなあ。(猪木に向かって)やっぱりビル・ロビンソンて、強かったですか?」
猪木「けっこう、やっぱりイキのいい時はね。カール・ゴッチなんかと『よーし!!』なんて、ホテルでもスパーリングをやってたんだから。当時はベッドも堅いからヒザが剥けたりしてね(笑)」
高田「はい(笑)」
猪木「ただ、そういう部分でのプライドというのがあったんだろうね」
高田「そのビル・ロビンソン戦もそうだし、あとは一連の異種格闘技戦とか、タイガー・ジェット・シンとの試合とか鮮烈でしたね。ストロング小林さんとの一戦とか。あ、大木金太郎戦もよかったなあ」
猪木「いや、さっき『過去は振り返らない』っていったけど、頭よくないから忘れちゃうんだよ(笑)。アルツハイマーだから(笑)」
過去は振り返らない性分の猪木ですが、
次々と名勝負を挙げられれば、
さすがに嬉しさを隠せないです。
高田もやはりロビンソン戦(参照:至高のプロレスリングから40年)が大好きですが、
好奇心の対象はもちろん“強さ”なんですね。
だからタイガー・ジェット・シンの狂気も(参照:血で血を洗う信頼感・੧ 、 同・੨ 、 同・੩ 、 同・੪ 、 同・੫ 、 同・੬ 、 同・੭)、
ストロング小林の怪力(参照:格とかパワーの事 、 続・格とかパワーの事)も、
大木金太郎の石頭(参照:昭和の日韓戦)をも、
あくまで“強さ”と同義語にある単語なんですね。
上に記した通り、この年4月に引退試合を行なった猪木。
かつてのライバルや愛弟子たちをゲストに迎えて、
華々しく引退セレモニーを飾ったのですが、
その弟子たちの中に高田の姿はありませんでした。
高田の中には、
80年代付き人を務めていた時代の猪木が、
そのまま“真空パック”されているのです。
高田「僕がデビューした頃に、猪木さんはあまり若手の試合は観られなくなったんだけれども、それでも一度、仲野の信ちゃんと、口のなかをザクザクに切るような試合をして控室に帰ったら、猪木さんが『おい、今日みたいな試合をしろ』って一言いってくれたんですよ。それで、すごい自信がついて。目の前がポッと明るくなったというか」
猪木「うん」
高田「で、当時は最終戦が蔵前国技館みたいに大きな会場だったから、そこの試合に出ることは大変だったんですけど、前の日に坂口(征二)さんか誰かから『明日の第一試合は仲野と高田で行けというのが社長からのマッチメイクだから』と電話があったんですよ。第一試合に出ることだけでも大変なことだし、まして猪木さんの言葉じゃない。それを聞いた時には、ひと皮剥けたというか、大きな自信を持つきっかけになりましたね」
自分が憧れの対象として描いた、
大好きな人から褒められる事ほど、
青春時代の活力となるものはありませんよね。
対談の締めは、
高田がPRIDE.4の観戦を願い出ますが、
対する猪木も絶妙な切り返しを見せます。
高田「ホントにお時間がありましたら、ぜひ生で(笑)。また『今日みたいな試合をしろよ』っていわれるように頑張りますから」
猪木「『一番強いヤツが出たんですよ』っていえるようにしてくれよな(笑)」
高田「あ、それしまったですねえ(笑)。その一言があったとは」
結局、PRIDE.4観戦は叶わなかったのですが、
対談の日から丸2年後の2002年8.27 西武ドームで、
猪木は初めてPRIDEのリングに立ち(参照:自分は何者なのか?)、
そこから深い深い関係を築いていきました。
二人が肩を並べた2002年11.24 東京ドーム大会は、
私にとって『UWFインター最終話』(参照:UWFインターの最終話)であり、
猪木と高田にとっては『新日本プロレスの続き』、
『1984年6月28日』だったのかも知れません。
高田が描いていたヒクソンとの闘いのイメージは、
猪木が成し得なかった打倒モハメド・アリ、
“プロレス最強論”の実証だったのかも知れませんね。
最後これだけは書いておきたいのですが、
高田引退試合のエンディングで、
猪木が締めの「1、2、3、ダーー!!」を決めた際、
後方で同じくダー! をやる選手の中、
高田の型は確実に80年代の猪木のそれでした。
あの姿を見るにつけ私は、
猪木に対する高田の愛を感じるのです。
高田伸彦の原点は、
私たちと同じプロレス少年ですからね。
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tag : アントニオ猪木高田延彦新日本プロレス80'S
コメント心よりお待ちしてます!
No title
ホイス戦での桜庭。
ヒクソン戦での船木。
これだけでも高田の功績は大きかったと思います。
ヒクソンなんて高田の膝に苦戦したから船木戦で自分が膝入れた後ガードしてましたから。
でも彼の言い分だと不思議と「対戦相手で一番強かったのは船木」ってなるんだよなぁ。
No title
私はこの発言なんとも思わなかったんですよね。
なんせプロレスラーとか以前に日本で一番強い男だったんで。
まぁ私もヒクソンのぎっくり腰とか信じてる人が信じられませんね
船木もよくやりましたけど圧倒的に高田のPRIDE4のときのが苦戦してますし
あと一息でって感じでしたよ。
高田って引退しても何度でも試合を見返してしまいますよ。
20日に出る本は即購入しますよ
>aliveさん
彼の言い分だと不思議と「対戦相手で一番強かったのは船木」<眼窩底行かれてましたからねぇ。でもやっぱり2度目の高田が一番追い込んだと思います。
>Fさん
私はこの発言なんとも思わなかった…プロレスラーとか以前に日本で一番強い男だったんで<そうでしたか、FさんはU系以外ではどちらかというと全日派ですもんね。私は新日、猪木ファンでしたのでこの発言はいささかショックでした。
船木もよくやりましたけど圧倒的に高田のPRIDE4のときのが苦戦<会場で観ていた臨場感抜きにして、私もあの日の高田が最もヒクソンを追い込んだと思います。
高田って引退しても何度でも試合を見返してしまいます…20日に出る本は即購入<近年はUWFの試合を観るのにも角度が変わりつつあるのですが、Uインターは観ているとあの時代と同じ観方に戻りますね。
今回の書籍も迷わず購入します。Fさんはまたしても即読了されるのでしょうか!?
そしてFさん! 本は24日発売ですよー!!