空前絶後の大ヒール~side B~(1992)

Wikipediaを見ると、

“空前絶後”とは、『それまでには例がなく、その後も例を見ない』、

或いは『未だかつてなく、今後もまずありえない』という事らしいですが、

日本のプロレス界におけるそれが、

北尾光司の存在だったと思います。
2発目のローを捕えきれず追って来た北尾

ヒール(悪役)という役どころは古くから、

プロレスの世界に存在していますが、

あくまで『リング上で悪い事、汚い真似をするから』、

ヒールという立場が成立する訳で、

お金を払って足を運んだ観客が、

それに対して怒り、野次や罵声を飛ばす事も、

またプロレスの楽しみ方の一面な訳です。

しかしプロレスが興行の世界である以上、

時として悪役以外で罵声を浴びせられる存在がいます。
蹴りばっか

ナチュラルヒールとも呼ばれるその立ち位置は、

単純に試合内容が酷かったり、

わかり難い攻防を延々と続けたり、

とにかく観客不在に振る舞うレスラー。

どちらかというと北尾はこっち寄りでした。

ただし通常のナチュラルヒールたちと違うのは、

北尾には何人にも抑え付ける事の出来ない、

“絶対的な強さ”があったという事です。
北尾KO勝利

北尾の人となりを知るには、

私と同じ1972年生まれのDersuさんが綴られた、

珠玉のブログ記事が最適です。

 挑戦者ストロング より
大文字三郎を探して

当時、北尾光司は困ったちゃんの現代っ子だった。大相撲で横綱を張るもいろいろやらかして廃業、スポーツ冒険家を名乗るも実績は週刊プレイボーイで人生相談コーナーを担当する程度、新日本プロレスに参戦するもしょっぱい試合を続けた挙句に長州力に民族差別発言をぶっかけて契約解除、SWSに参戦するもアースクエイク・ジョン・テンタに八百長野郎とマイクで叫んで解雇。良識ある人々が眉をひそめる鼻つまみだったわけだが、個人としての北尾は旧弊なる80年代の角界でパソコンを嗜み、ナイフマガジンに連載を持ち、テレビアニメ「赤ずきんチャチャ」に耽溺した。オレは北尾に、早すぎた現代オタクの肖像を垣間見るのだ。後の佐竹雅昭は特撮映画好き、高山善廣(回復をお祈りしています)は田宮模型への就職も考えたというプラモ/RCカーマニア、棚橋弘至はライダー好き、獣神サンダーライガーは怪獣フィギュア造形職人。いずれも「男の子」趣味のレスラーが多い中、少女漫画原作のアニメ「赤ずきんチャチャ」にのめりこんだ北尾光司の先進性は現代でこそ再評価されるべきである。いやこれは余談であった。


90年代初頭の北尾の全てを、

たった500字足らずの文で、

ここまでわかりやすく言語化されたものは他にないですね。

そして『取扱い要注意の毒劇物』に等しいその北尾を、

敢えてリングに引っ張り上げて有効利用したのが、

“Uインターの頭脳”宮戸優光の手腕だったのです。
高田vs北尾調印式

宮戸はUインターの人気が爆発するタイミングを、

既に旗揚げ当初から描いておりました。

プロレスの達人21表紙
 プロレスの達人 Vol.21 より

宮戸
「北尾戦('92年10月23日・日本武道館)まではおぼろげながらイメージがありましたよね。最初が大事でした。UWFがやったように、高田延彦を内々だけのお山の大将にさせてはならない。一弱小団体のトップという小さい枠に高田延彦をおさめるんじゃなく、プロレス界のトップ=格闘技界のトップにするんだと」


高田延彦を“平成の格闘王”とすべく、

宮戸は様々なものを犠牲にしていきます。

昭和の新日本でも坂口以下のレスラーがジョバーとなる事で、

アントニオ猪木というカリスマが君臨したのですから。

しかしUインターは昭和新日と比較すると、

選手数は半分以下、興行数も年間10大会程度、

地上波テレビのレギュラー放送がある訳でもなく、

高田という切り札を、

出し惜しみする余裕はなかった訳です。

ましてやゲーリー・オブライトのケースの様に、

じっくりと使っていける程の信頼関係は、

北尾との間にはありません。

最短距離で最大限のインパクトを残すべく、

宮戸は団体ナンバー2の立場にある山崎一夫を、

一発目にぶつけて行きました。
北尾vs山崎

結果的に山崎が惨敗を喫した(参照:空前絶後の大ヒール~side A~)ことで、

初めて北尾の強さがプロレスのリングで開花し、

プロレスファンも北尾の存在価値を認めたのです。
四方に礼をして退場する北尾

だが、これで山崎の役目を終わらせる宮戸ではありません。

Uインターの内部事情を知る流智美は、

当時の宮戸と山崎の関係を書き残しています。

プロレスライバル読本表紙
 プロレスライバル読本―リングを揺るがす、愛と憎しみの闘い! より


Uインター時代の山崎がビッグチャンスをもらうのは、せいぜい年に一、二回。それ以外はまさに高田の“噛ませ犬”的なマッチメイクを甘受していたものだが、その数少ないビッグチャンスともなると、必ず宮戸から『週プロ』用のインタビューの要請があったものだ。
「今回は山崎さん、本当に気合いが入ってるんですよ。ぜひ週プロ読者にも知ってほしいんです」
山崎にインタビューしたのは92年7月。5月に北尾にKO負けを喫した約二カ月後、再戦をアピールしはじめたときだった。が、インタビューに現われた山崎からは、再戦への執念を感じることはまるっきりできなかった。だいいち、幼稚園児や小学生ではあるまいに、このインタビューには宮戸が同席して、山崎を叱咤していたのだ。宮戸にしてみれば、“山崎さんにヘタなことを喋られたら、来るべき高田-北尾戦のイメージダウンになってしまう。山崎さんはしょせん噛ませ犬なんだから…”という思いでいっぱいだったのだろう。山崎が気の抜けたビールのようなコメントを繰り返すたびに、宮戸は「いま、山崎さんが言おうとしたことは、こうこうこういう意味です」と徹底チェック。山崎は時おり“うるせーなぁ!”という表情をしたり、宮戸がトイレに立つ背中をニラんだり、とにかく不機嫌だった。


北尾に敗れた山崎を、

さらに高田の噛ませ犬として再利用する事で、

来るべき高田vs北尾までのプロセスとする“仕掛け人”宮戸。

実際の試合は 8.14 札幌中島体育センター1992年8.28 後楽園ホールでの、

ダブルバウト2連戦でしたが、

特に後楽園大会はモチベーションを象徴するかの様に、

山崎は一度もリングインせぬままの秒殺劇。
一度も交代せず、

やり切れぬ思いのまま、

プロレスラーとしての汚名を晴らすための、

北尾への再戦要求も受け入れられず、

高田戦実現への言質をとるきっかけに逆利用されていました。


予想どおり、北尾側は山崎との再戦を拒否した。勝っても負けても一度きり、という契約だった以上、これは北尾側にとっても当然の反応だったが、記者会見の席で北尾が発した「高田選手と闘うならともかく、山崎選手と闘う意思はありません」というひと言こそ、宮戸がとらえたかった“言葉尻”だったのである。
(略)いま考えると、Uインターのありとあらゆる方向性は、宮戸が各所に張りめぐらせたワナと、それに引っ掛かった獲物によって決められていたように思う。


そこからの高田は周知の通り、

プロレスリング世界ヘビー級王座奪取(参照:スーパースター誕生)から、
テーズベルトの封印を解く

フラストレーションを最高潮に溜めておいて(参照:10月最後の夜に…カタルシスを)の、

北尾完全KO劇(参照:神様が降りて来た夜)と、

まさしく1992年下半期がピークだったと思います。
高田激勝!!

即ちそれは団体としてのUWFインターの最盛期でもあり、

プロデューサーとしての宮戸の最盛期でもありました。
まずは宮戸と握手

とことん噛ませ犬に成り下がった夜、

山崎のテンションとは真逆に盛り上がるUインター全社員は、

六本木の街へ繰り出します。


10月23日、高田が北尾をノックアウトに葬った夜、鈴木健取締役の音頭で深夜十一時から、六本木の「R」という店で緊急の大祝勝会が開かれた。(略)この夜、高田の快勝を祝うべく、Uインターの全レスラー(フロントも全員)が集結したのには驚いた(この日、この夜がUインターという団体のピークだった)。
山崎も、とにかく来たのである!


ちなみにこの10.23 日本武道館のセミファイナルに登場した山崎は、

初対決の田村潔司に一本負け(参照:我がUインター・ベストバウト)。
山崎ギブアップ

山崎は取締役として義務的に顔を出したものの、

流氏にひとこと言い残して打ち上げ会場を去ります。


山崎はセミファイナルでそれまでいちども対戦したことさえなかった若手の田村潔司(当時、二十二歳)に屈辱のギブアップ負けを喫していた(腕ひしぎ逆十字)。
「カンパーイ!」
安生のご発声のあと、五分くらいして山崎の姿がないことに気づき、私はなんとなく忘れ物でもしたかのように出口のほうに小走りすると、山崎はそそくさと帰り支度をし、車のキーをポケットから取り出すところだった。
「山崎さん、これから盛り上がるとこじゃないですか。もう少し飲みましょうよ」
いつもは陽気な山崎が、このときは本当に暗く暗く沈んでいた。山崎はただひと言、こう言った。
「ああいうのは、好きじゃないんですよ。じゃあ、お先にすんません。お休みなさい」
“ああいうの”の意味するところは、賢明な『別冊宝島』のプロレスフリークには説明するまでもないだろう。


“ああいうの”…。

その“ああいうの”が折り重なるから、

プロレスは他の格闘技やスポーツとは違う異彩を放つのです。

特にUインターでは他の団体と違う形の“ああいうの”が観られました。
宮戸の前を横切る山崎は何を思う…

「当時のUインターの異常な面白さは何なのか?」という、

吉田豪の質問に対し、

宮戸はこう答えています。

喋る!!道場破り表紙
 吉田豪の喋る!!道場破り より

宮戸
「やっぱり団体としての攻撃性でしょうかね? いま振り返っても、僕なんか対ファンというか、対他団体はもう悪役ですよ。ただ、そうなることが嫌じゃなかったんです。そうすることによってUインターが前に出る。要するに、あの頃は全団体でトップになりたいっていう夢があって、その団体のトップはどこかっていうと新日本だったんです。だから新日本をすべての意味で超えたかった。強さとしても動員でも、あらゆる意味でね。それには常に新日本がやってないことをやっていく。まずはみんなで強さを身につけていく。それから常に他団体に対しても、誰か文句のあるヤツはいないか、みたいなアピール」

「うん。あれはリアルヒールだから。いまみんな、リアルヒールになってまで何かを達成しようなんてことはまずできないでしょ? でしょ? その貧乏くじを貧乏くじと思ってなかったし、嫌じゃなかったんですよね。当たりくじだとは思ってないけど。自分らが達成したい目的のためには嫌じゃなかったし、それで話題になってくれればこんなにいいことはないっていう」


自らの立ち位置を、

リアルヒールとしてはっきりさせる事で、

Uインターを日本プロレス界のトップに押し上げようとしていた訳です。
記者会見の宮戸

北尾という空前絶後の大ヒールを生み出したプロレス界、

その大ヒールが初めて開花したのがUインターのリング、

その空間を創り上げたのはプロデューサーとしての宮戸。
北尾ダウンの後方に宮戸

本物の空前絶後の大ヒールは、

果たして北尾だったのか?

それとも…。

関連記事

tag : 北尾光司 宮戸優光 高田延彦 山崎一夫 流智美 吉田豪

comment

Secret

キター!

レガさん、有り難うございます。「プロレスライバル読本」、当時読みました!懐かしいなあ。

戦後の山ちゃんと宮戸のインタビューの件、光景が目に浮かぶようでとてもとても切ないです。結果的に必要なプロセスであったとはいえ、山ちゃんには到底許容できるものでは無かったですよねえ。

この当時の熱気は今考えても異質ですね。というか、今こんなことをやってたらコンプライアンスがどうのと叩かれてお終いのような気がします。

いやあ、熱い時代でした。あの一連の騒動をリアルタイムで体感できて、幸せでした。こうしてレガさんの文字起こしで読むと尚更です。これからも更新、期待しています!!

>てつさん

こちらこそありがとうございます。

インタビューの件、光景が目に浮かぶようでとてもとても切ない…山ちゃんには到底許容できるものでは無かった<団体の方向性と異なる発信がない様に宮戸も細心の注意を払っていたそうですからね。
一人一人の個性を殺していた可能性もありますが、結果的にUインターと言う団体の求心力を大きくしていったと思います。

今こんなことをやってたらコンプライアンスがどうのと叩かれてお終い<そうなんですよね。プロレス界に限らず、「あの時代だったから…」というのが多々ありますよね。時代の巡り合わせでしょうね。

あの一連の騒動をリアルタイムで体感できて、幸せでした<90年代のプロレス多団体時代を知っている世代はある意味幸せだったかも知れませんよね。

No title

北尾さんが「赤ずきんチャチャ」を満面の笑顔で見る姿を想像したら笑ってしまった。

山ちゃんがね・・・。そんな裏側が。
そういうのが積もり積もっての95年の離脱に繋がるのかな?。

>スライディングDさん

北尾さんが「赤ずきんチャチャ」を満面の笑顔で見る姿<どんな内容のアニメだったのか全く記憶にないのですが、いずれにせよ北尾の人となりを知る上で重要なアレですね。

そういうのが積もり積もっての95年の離脱<その様ですね。
当初は勝っても負けても『団体の為』だった、と。
でも、ある日『中間管理職』の自分に嫌気がさしての行動だったそうです。
結果的にプロレスラー山崎一夫として、その決断は大正解でした。
紫レガとは?

紫レガ 

Author:紫レガ 
45歳のプロレス話


長州、これは俺のブログだ。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
UFC (1)
ISM (1)
最新トラックバック
検索フォーム
カレンダー
05 | 2018/06 | 07
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
月別アーカイブ
リンク
来場者数
QRコード
QRコード