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暴風雨の中の風車 Vol.1~でくのぼうBLUES~(1977)

アントニオ猪木の歴史において、

決して欠かす事の出来ないライバルの一人が、

“ブレーキの壊れたダンプカー”スタン・ハンセンでしょう。

もしかするとハンセンと猪木が巡り合ったのは、

プロレス界の奇跡かも知れません。

丸5年間という短い時間の中で、

両雄が何度も闘う事によって、

プロレス界の様々な既成概念が壊されていきました。



ハンセンの初来日は1975年秋の全日マットでした。
ハンセン初来日@全日1

今、この時の映像を観ると、

どこにでもいる様な大型ラフファイターの佇まいですね。

そのまま全日の常連ガイジンになっていれば、

“レスリングの出来るジム・ドゥガン”ぐらいの感じだったのかな?
ハンセン初来日@全日2

ハンセンが最初にブレークしたのは、

意外にもWWWF(現在のWWE)のマットでした。
ハンセンvsサンマルチノ@WWWF1

当時、完全無欠のトップだった“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノとの抗争で、

数々の激闘を繰り広げたのですが、
ハンセンvsサンマルチノ@WWWF2

そのハイライトとなったのが“首折り事件”ですね。
ハンセンvsサンマルチノ@WWWF3

ご承知の通りアクシデントによる事故だった訳ですが、

それを直接、興行に結び付けるのが本当のプロレス。

1976年6.25(現地時間) ニューヨーク州センチュリー・シェア・スタジアムにおいて、

WWWFヘビー級選手権試合で完全決着をつけました。
ハンセンvsサンマルチノ@WWWF4

この試合の背景については、

流星仮面二世さんが詳細に記していますが、

サンマルチノがいかにNYの英雄だったかがわかりますね。

 団塊Jrのプロレスファン列伝 より
過去ブログメモリアル~ラリアートよ永遠なれ!スタン・ハンセン大特集 第ニ戦~

1976年6月26日 格闘技オリンピック(前編)

この日は日本での猪木vsアリの“世紀のスーパーファイト”をメインに、

全米4団体が各地でそれぞれビッグマッチを開催するという、

歴史的な一日でもありました。
猪木アリ試合前

しかしながら、

トップレスラーに大怪我をさせたハンセンは、

あわや危険な男のレッテルを貼られて、

“商売あがったり”になりかけたのですが、

怪我を負わされたサンマルチノ本人の温情で、

しっかりと興行に還元されて、それを免れました。

そして、一つの仕事を終えたハンセンに対して、

WWWFプロモーターのビンス・マクマホン・シニアは冷却期間を置く意味で、

1977年の年頭に、

提携先の新日本プロレスへブッキングします。

そしてハンセンは真っ赤な糸に導かれる様に、

遂に宿命のライバルと出会う訳です。

それが猪木という存在でした。
堂々と控室へ

1年半ぶりの日本上陸となったハンセンでしたが、

新天地のリングにおけるプロモーターであり、

トップレスラーでもある猪木について、

全く予備知識を持っていませんでした。

猪木50周年本上巻表紙
 アントニオ猪木50Years(上巻) より

ハンセン
「サンマルチノとのストーリーが終わった後、ビンス・マクマホン・シニアから『ニュージャパンへ行ってイノキと闘わないか』と言われた。ビンス・シニアからのオファーだし、断る理由は何もないから『OK』と返事をした。それで1977年1月に初めてニュージャパンに行ったんだ」

(猪木のことは)ほとんど知らなかった。私にとってはビンス・シニアが与えてくれた次のチャンスというぐらいの感覚だった。でも結果的に、ニュージャパンへ行ったことで私の人生は大きく変わった」


そう、これが人生を変えたリングへの初参戦だったのです。

二人は『新春黄金シリーズ』開幕戦の1.7 越谷市体育館


翌週1.14 福岡・九電記念体育館と、


いきなり2週連続テレビマッチのシングルで対戦。

いずれも必殺ウェスタン・ラリアートで見せ場を作るも、

最後はシン、上田の乱入で反則決着。

ただしこの時点において、

迎え撃った猪木の感触は実にシビアなものでした。

アントニオ猪木の証明表紙
 アントニオ猪木の証明―伝説への挑戦 より

猪木
「とにかく『でくのぼう』でしたね…。初めて来た頃のハンセンは、なんていうかテンポがなかった」


出ました『でくのぼう』扱い!!

ブロディ戦(参照:運命の不協和音 WoO.9~ミラクルパワー全面開放・後編~)より8年も前の事、

超獣コンビとして大暴れするパートナーに対しても、

『でくのぼう』認定をしていたのですね。

のちのハンセンから想像もつかないレッテルです。

そういや馬場さんも当初は「ハンセンにはセオリーがない」とか言ってたはずです。

当時は『テンポの悪い“でくのぼう”』にして、

しかも『相手に大怪我させるデンジャラスな奴』だったと。

これってレスラーとして最低の評価じゃないですか。

3度目の一騎打ちとなった、

2.2 大阪府立体育会館では、
猪木vsハンセン1977~1

粗削りなハンセンのブルファイトを最大限引き出した上で、

最後はウェスタン・ラリアートをかわしての、
猪木vsハンセン1977~2

バックドロップによるピンフォール勝ち。
猪木vsハンセン1977~3

さらにシリーズ終盤の2.6 久慈市体育館2.9 横浜文化体育館と、

2試合やって、いずれも逆さ押さえ込みで猪木の勝利。

短期間に何度も肌を合わせる事によって、

猪木は徐々にハンセンの素質を見抜き、
猪木vsハンセン1977~4

ダイアモンドの原石としての輝きを見出していきます。
猪木vsハンセン1977~5

猪木
「彼自身が自分の持ち味に気づいていなかったんですよ。それは、今まで闘ってきた相手から刺激を受けなかったことが原因だったと思うんですがね。
(略)だからもともと、ハンセンの素質に合った相手じゃなかったんだろうと思うんですよ。ひょっとすると、その時点ですでにサンマルチノを超えていたのかもしれないし」


前年のWWWFにおける事故についても、

むしろハンセンの強さを受け止め切れなかった、

とうに峠を越えたサンマルチノの方に問題があった、と。

まさに『猪木の常識、非常識』そのものですが、

ハンセンもまた猪木と巡り合ったことで、

ここから“でくのぼう”の殻を破って、

実に大きな華を咲かせていく訳です。

さらにこの新日初参戦シリーズには、

トップガイジンであるタイガー・ジェット・シンも参加していた事(参照:血で血を洗う信頼感・੬~デスマッチとUWA~)が大きいですね。

Gスピリッツ46表紙
 Gスピリッツ Vol.46 より

ハンセン
「日本で初めて彼の試合を観た時は、プレゼンといい、スタイルといい、衝撃的だったよ。“これが新日本のトップガイジンなのか!”と、スタイル的に影響を受けたのは確かだ」


ハンセンはこのシリーズでシンの一挙手一投足を見て、

日本における自身のキャラ設定をイメージしました。

それは2度目の新日参戦となった、

同年8月の『闘魂シリーズ』で実行されます。

ハンセン
「初めてのツアーでタイガー・ジェット・シンがサーベルを持っていたのに衝撃を受け、コピーはしたくはなかったが、次に日本に来る機会があれば、ウェスタンカウボーイ…テキサスを象徴する何かを用意しようと思っていたんだ。でも、あの時に振り回していたのはブルロープじゃないよ。ただの黒と赤の細いロープだった(笑)」


元々、このシリーズのエースガイジンはブラックジャック・マリガンでしたが、

持ち前の巨体とド迫力のブルファイトで、

ハンセンが主役の座を強奪した形となり、

遂にビッグチャンスを掴みました。

猪木にとって“虎の子”ともいえるベルトへの初挑戦。

1977年9.2 愛知県体育館における、

NWFヘビー級選手権試合

アントニオ猪木vsスタン・ハンセン
です。

試合終盤にハンセンが繰り出したカナディアン・バックブリーカーから、

両者はレフェリーも巻き込んで場外転落。
猪木vsハンセン1977~6

そこでハンセンのセコンドとしてリング下にいたマリガンが、

レフェリーのブラインドを衝いたアシストから、

カウンターのウェスタン・ラリアートで猪木を場外KO!!
猪木vsハンセン1977~7

一度はハンセンのリングアウト勝ちが宣告されましたが、

サブレフェリー柴田勝久のクレームにより、
猪木vsハンセン1977~8

すぐに再戦が始まり、

最後は2月の大阪と同様、

ウェスタン・ラリアートをダッキングした猪木が、
猪木vsハンセン1977~9

高角度のバックドロップで逆転のピンフォール勝ち。
猪木vsハンセン1977~10

10度目の防衛には成功しましたが、

大きなダメージから、

勝利者インタビューさえもままなりませんでした。
猪木vsハンセン1977~11

それでも、まだブレーキの壊れたダンプカーは、

アクセルを踏み込む前の段階。

徐々に『でくのぼう』の殻が割れてきたところで、

Vol.2へ続けます。

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tag : アントニオ猪木 スタン・ハンセン ブルーノ・サンマルチノ NWF WWWF

comment

Secret

竹内さんのフィクションもなかなかだ。

よく最強タッグの超獣vsマスカラス兄弟でマスカラスがハンセンにシュートを仕掛けたのが定説になっていますが、実は違っていて馬場vsハンセンよりも先に鶴田・マスカラスvsハンセン・ジプシージョーてのがあり、その試合後にハンセンの腕をマスカラスが固めていました。ニコニコ動画で保存していますので機会があったら、お見せします。

なるほど!

たられば、ですけども、もし初来日から全日の常連になっていたら「レスリングの出来るジム・ドゥガン」になっていたかも・・・という例えは凄く同感ですね。

全日はオールドクラシックなスタイルが主流でしたから、当時のハンセンの荒削りで型破りな素質を開花させられたかというと・・・疑問ですね。

昭和の新日・全日のカラーの違いで、全日の外人はスタイルも確立されてて人気と知名度もある完成品が多かったのに対して、新日の外人は、スタイル未完成で知名度が無くても猪木が闘いの中で素質を引き出し磨き上げ、スターに昇華させていった・・・と。

遡れば、双方の旗揚げ時の状況に行き着くんでしょうね。新日はネームバリューのある大物を呼ぶ政治力が無かったから、自前でスターを作っていくしか無かったと。

間接的に、猪木の懐の深さが浮き彫りになりますね。ハンセン、シン、ホーガン達は、勿論、本人達の努力とスマートさもあったにせよ猪木によって不動の地位を築いたわけですからね。

VOL.2でのレガさんの解説も楽しみしております!

>aliveさん

馬場vsハンセンよりも先に鶴田・マスカラスvsハンセン・ジプシージョーてのがあり、その試合後にハンセンの腕をマスカラスが固めていました<本当に映像部長は詳しいですなぁ~。そんな映像ほとんどの方が知らないでしょう。
ここに書かれるよりも、いっそaliveさんの映像ブログでも解説なされたらかなりマニアックなファンの方々のオアシスになるんじゃないかと思いますね~!

>亀熊さん

「レスリングの出来るジム・ドゥガン」になっていたかも・・・という例えは凄く同感<ありがとうございます! あの映像観てると本当にそういう感じなんですよね。

全日の外人はスタイルも確立されてて人気と知名度もある完成品が多かった…新日の外人は、スタイル未完成で知名度が無くても猪木が闘いの中で素質を引き出し磨き上げ<それ以前のシンもそうですが、ハンセンは特にそういう存在でしょうね。
猪木と出会わなければ全日で不動のトップガイジンになり得る事もなかったでしょうし、もしかしたらAWAのベルトを巻く事さえなかったかも知れません。

ハンセン、シン、ホーガン達は、勿論、本人達の努力とスマートさもあったにせよ猪木によって不動の地位を築いたわけですから<ですから逆に一つのテリトリーで頂点に立っていたレスラーは新日に来て株を落としていましたよね。
ブッチャーを筆頭にボックなんかもそういう感じがします。

VOL.2での…解説も楽しみしております!<ありがとうございます。何とか頑張ってみます。

No title

年度末で色々有りまして、今に成ってしまいました。

ハンセンの新日本時代の特集ありがとうございます!。

ブロディの新日本参戦を見て思い出したので。

僕の中でのハンセンは「全日本」のハンセンですから、プロレス雑誌の増刊号ぐらいしか新日本時代のハンセンを知らないので。

もう少し続きそうな感じがしますので楽しみにしてます。

>スライディングDさん

ハンセンの新日本時代の特集ありがとうございます<こちらこそ、改めてありがとうございます。前回のコメントで書いた通りです。

僕の中でのハンセンは「全日本」のハンセン<ほとんどのファンにとってはその通りだと思います。でも新日時代があってこその全日“不沈艦”時代だと思っております。

もう少し続きそうな感じ<何とかラストスパートに入りました。最後までどうか宜しくお願い致します。
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Author:紫レガ 
46歳のプロレス話


「紫レガのブログは少し滑る感じになってるんです。ですから今、スライディングしながらね。下ネタも使ってですね、巧く腕極めましたね」

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