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限りなく濃く深い師弟関係

1996年5.27 日本武道館でのシングルバウト(参照:Sobat of Departure)が、

藤原喜明高田延彦の最後の一騎打ちとなりました。
早くも脇固め

つくづくプロレスの世界というのは、

“因縁”によって成り立っているんだなぁ、と思うのが、

この日の丸々14年前、

試合前の体育館でこの師弟は、

血だらけになってスパーリングに汗を流していたという事実。


東スポ編集部に残る、

一枚の写真がその証拠写真です。

 東スポWeb より
ブッチャーもアキれた藤原vs高田のスパーリング

イスが並んだ開場前。会場通路にて若手選手のアキレス腱をガッチリときめて寝技スパーリング中なのは、まだテロリストとも組長とも呼ばれていないころの藤原喜明。やられているのは、まだ最強でも総統でもなかった若手時代の高田伸彦(現延彦)。1982年5月26日、新日本プロレスの大阪府立体育会館(旧)の試合前の一枚だ。


ぜひリンク先の画像を見て頂きたいのですが、

1982年の春ということは新日が黄金期を迎える中で、

まだ藤原はテロリストとして脚光を浴びる前、

マニアックなファンにしか存在を知られていなかった頃かと思います。

一方の高田に至ってはデビューしてちょうど一年、

シングル戦績は実に『2勝29敗9分』!!

黒星先行にも程があるくらいの状態でしたが、

ひたすら強さを求めて藤原にスパーを乞うていた訳です。

前座レスラー二人がスパーリングしようにも、

スター選手たちがリングを占拠するものだから、

仕方なくリング下のフロアを使うしかない。

硬い床の上で肘や膝は擦り切れて、

血だらけになろうとも黙々と続けられる光景は、

見ていたブッチャーらには異様に映ったことと思いますね。
fc2blog_20170817235408767.jpg

もちろん強さを求めて藤原の教えを乞うた若者は、

高田以外に歴代何人もいて、

人はその集団を指して“藤原組”と呼びました。

 夢のいる場所―新U.W.F.伝説 高田延彦エースへの物語 より

それはそうと、藤原組という言葉があった。道場で藤原のスパーリングを受けていたレスラーたちに対する、呼び名だ。はじめに熱心に指導を受けたのは佐山だった。前田、高田の他には、山崎や仲野、すでに新日を引退した小杉俊一(※原文ママ)もその一員と思われていた集団だ。その頃、新日の若手だった人間は多かれ少なかれ、藤原にしごかれていた。ついてこれない者は、すぐに去っていった。だから藤原組というのは、当時の新日道場そのものだったといってもいい。


しかし実のところ藤原と高田の絆は、

美談と異なる部分でスタートしています。

最強の名のもとに表紙
 最強の名のもとに より

高田
藤原さんと言えば、地獄のスパーリングを思い出す。稚内で試合がある前日のことだ。猪木さん、坂口さん、それに藤原さんとメシを食っているとき、酔っぱらったひょうしに、
「藤原さん、飲んでないじゃないですか」
と、言ってしまったのだ。もちろん、藤原さんはおっかない人だったから、それまでそんな口のききかたをしたことはない。ただの弾みだったのだ。
そしたら、ついさっきまでニコニコしていた藤原さんの顔色がガラリと変わって、
「お前、いい根性してるな」
と、言ったきり、口を閉ざしてしまった。
次の日、稚内の体育館で、
「高田、少しつきあえや」
と、声をかけられた。つきあえと言っても、昼メシに誘ってくれたわけじゃない。昼メシだったらどんなによかったことか。スパーリングの相手に指名されたのだ。


鬼コーチ藤原直々のスパーリングパートナーご指名に、

高田は意気軒高と臨みましたが…。

高田
しかし、この日は特別だった。関節技を極められるたびに骨がギシギシ軋み、数えきれないほど、拳骨やヒジを顔面にもらった。スパーリングが終わったときには、明らかに自分の顔が変形しているのがわかった。余計なことは言うものではない。


若手時代の高田はアルコールが入ると、

ついつい口が滑ってしまうところがあったらしく、

とにかく余計な一言から、

先輩に食らわされた思い出が多々あるみたいでして、

そんなところに私なんかは、

勝手に親近感持ってしまったりするんですが(笑)、

よりによって藤原相手となればもう実力行使な訳です。

しかしそこから始まったスパーリングは、

二人の絆をどんどん深めていきました。


その後、

藤原はテロリストとして、高田は初代タイガーの後釜として、

師弟の立場が急激に変化を遂げた1984年春、

突然の大きな転機が訪れます。
1984年の新日正規軍

高田
ある日、寮の食堂で藤原さんとメシを食べていると、藤原さんは突然妙なことを言い始めた。
「右が新日とするだろう。で、左がUWFと。どっちに倒れるかな」
藤原さんは箸を一本テーブルに立て、手を離す。
「左か。ということは、UWFか」
すぐ近くにいる自分など眼中にないといった様子で、藤原さんは何度も同じことを繰り返す。しかし、自分に語りかけていることがよくわかった。
「何回やっても、結果は一緒だな」
藤原さんの持った箸はいつも左側に倒れた。藤原さんがわざとUWFのほうに箸を倒していることくらいすぐにわかったし、何を意味しているのかもわかった。

藤原さんに挨拶して自室に戻ると、藤原さんの謎の行動について考えた。
(略)旧UWFの存在は理解していたが、直接、自分に関する問題とは思ってもいなかった。試合でベストを尽くす。自分にいま必要とされているのはそれだけだ。しかも、ダイナマイト・キッドとの対戦を目前に控えているのだ。その試合に気持ちを集中したかった。余計なことはあまり考えたくない、と思ってもいた。
自室でしばらくぼんやりしていると、藤原さんに呼び出された。
「俺はUWFに行くことにした」
藤原さんの目は真剣だった。自分はその場で即答した。
「自分も行きます」
その夜、自分は荷物をまとめると、寮をあとにした。


自らのUWF移籍とそれに伴う若い衆への誘いを、

口下手な藤原らしい表現で行い、

実際、多摩川土手に招集して何人かに声も掛けたのですが、

結局、行動を共にしたのはただ一人、

若手のトップに位置していた高田だけでした。

高田
自分はもっと強くなりたかった。最強のプロレスラーになりたいと思った。その夢を実現するために、学ばなければならないものはたくさんある。藤原さんと前田さんから盗むことは、山のようにあったのだ。プロレスラーとしてもっと強くなるためには、ふたりについていくしかない。とことんくらいついていこう、そう思ったのだ。


理由は単純明快、

プロレスラーとしての“知名度”より“強さ”を求めて、

藤原に付いて行ったのです。


しかしUWFという団体に所属して失ったものも大きく、

高田はどん底の思いもした訳です。

資金難に次ぐ資金難からある年の暮れ、

苦肉の策として行われたファン感謝デー的興行において、

初めて新日を飛び出た後悔というものを味わいます。

泣き虫表紙
 泣き虫 より

高田
「情けないことに、そのときスパーリングで、膝のじん帯を切っちゃったんです。試合ならまだわかる。スパーリングですよ、それも若いやつとの…。足を引きずって用賀のマンションに帰った。膝は腫れ上がってきてる。歩けないから外に飯を食いに行くわけにもいかない。冷蔵庫を開ける。入ってたのは、6Pチーズが三個だけ。なら出前か。財布を見たら数百円しか入ってない。それでいながら駐車場にはフェアレディZが停めてある。世間は年末。いったい俺はここで何をしてるんだろう。なんでこんなことになっちゃったんだろう、新日本に残ってたらどうなってたんだろう。そんなことを考えてるうちに、泣けてきちゃいました」


そりゃそうでしょう。

新日本に残っていればZに乗っていなかったにせよ、

怪我して飯も食えない様な境遇に遭う訳ないのですから。

一人暮らしの独身男性ならば、

若き日に一度は経験したかも知れない状況も、

脚光を浴びる新進気鋭のプロレスラーにとっては、

地獄の様な屈辱だったと思います。

そこに暖かい手を差し伸べたのは、

師である藤原でした。

高田
「落ち込んで落ち込んでどうしようもないときに、藤原さんから電話があったんです。“おう、お前、何してるんだ”“いや、なにもしてないです”“お前、カネないだろ”。そこでもう、涙がガーッと出てきました。それでも、精一杯強がって“いや、大丈夫です”って答えたんですけど、“ウソつけ、少しだけだけど用意しとくから俺んちに来い”って言われたら、もうダメでした。礼を言って、電話を切って、また号泣です。で、足立区にある藤原さんの家に出かけていって忘年会をやって、ワーッと騒いで、ひと月分のお金を貸してもらって、それでなんとか、年が越せました」


当時、経営状況が最悪だった旧UWFでは、

ほとんど給料が出ていなかったといいます。

後年、前田日明は否定していましたが、

テレビ局が付いていた新日での待遇と比較すれば、

それはほとんど無給に等しかったであろうと思います。

もちろん藤原だって同じです。

ちなみにこの書籍では1985年となっていますが、

1984年の事だったと思います。
1984年のUWF勢

結局、1985年に旧UWFは経営不能となり、

1986年から新日と業務提携を経て、

1988年再興しますが、

ご承知の通り1991年頭に三派分裂。

この時点で藤原と高田の師弟関係は、

既に終わっていたと見られています。

それが1996年、まさかの再会。
あの日と同じ握手

UWFを長いスパンで見てきた者として、

この試合後、藤原のコメントが印象深いです。

藤原
「昔、なんか、あの、教えた通りにね、うん、やりやがってね。うん、フフフ」

高田戦後の藤原

話しながら一瞬だけ、

嬉しそうな顔をしたのが忘れられません。



現在、UWF出身者たちのアンタッチャブルな人間模様、

高田と藤原もその中に含まれます。

しかしながら、

二人が濃い師弟関係にあった事は、

過去の発言を読んでも明白なんですよね。
藤原と高田、濃い師弟関係

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tag : 高田延彦 藤原喜明

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Author:紫レガ
47歳のプロレス話


「昔はインターネットを旅してましたからね。毎晩ブログでね、今みたいにSNSがいっぱいある訳でもないし、終わったらみんなブログでね、一日の終わりにUPして。今こんなこと言ったらエラいことになりますけどね、よく寝不足になったね、部屋でPCを打ったりね。…いや、そういう歴史はちゃんと教えとかないとね」

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