追悼・もう一人のボディガード

先月末の事、

永源遥、突然の訃報に驚きました。

 東スポWeb より
“ツバ攻撃”の名脇役 永源遙さん急死 サウナで突然倒れる

元プロレスラーの永源遙(えいげん・はるか、本名同じ)さんが28日に急死した。死因は不明。70歳だった。永源さんは1966年のプロレスデビューから6団体を渡り歩き、ファンから「名脇役」として愛された。くしくも全日本プロレス時代の後輩だった故ハル薗田さん(本名・薗田一治=享年31)の命日にまた一人、プロレス界を代表するバイプレーヤーが旅立った。


急死・永源さん 死因は「急性心筋梗塞」

プロレスリング・ノアは29日午後、28日に急死した元プロレスラー・永源遙(えいげん・はるか、本名同じ)さん(享年70)の死因が急性心筋梗塞だったと発表した。

成城警察署の検視の結果、28日午後4時30分ごろ都内のサウナで倒れ、1時間後に発見された。緊急搬送先の病院で死亡が確認された。


全日、ノアでの悪役商会キャラが確立されていますが、

元はといえばデビューは東京プロレス。

その後、新日の全盛期までアントニオ猪木に仕えた側近の一人です。
猪木と永源@パキスタン

猪木のコメントも載せておきます。

猪木氏が永源さん追悼コメント 1か月前に会食「本当に元気が良かった」

猪木氏にとっては、いわば最初の“弟子”で50年の付き合いになる。猪木氏は「サウナの中で死んじゃったの? みんなしようがない。オレたちの仲間は体を酷使している。スポーツということ以上にね」と達観した様子で語った。

(略)「レスラーでも型破りの営業ができた。なかなかレスラーでもそんなにいない。当時の新日本の裏のほうでも動いてくれた。相撲時代のタニマチの関係もあった」。永源さんは“営業部員”としても実力は抜きん出ていたという。

(略)猪木氏との“師弟関係”は続いた。1か月前にも会ったばかりといい「共通の友達がいて、何回か銀座でもメシを食った。本当に元気が良かったから、会うと昔の話になって『いや~(あのころは)良かったですね』って言ってましたよ。謹んでご冥福をお祈りします」と故人をしのんだ。


『型破りの営業』、『裏のほうでも動いてくれた』、『相撲時代のタニマチの関係もあった』。

永源といえば荒川と並んで、

その人脈から来る営業力が有名でしたね。

裏にも顔が利く上、リングでの実力も持ち合わせていた事で、

藤原喜明同様に、

猪木は全幅の信頼を寄せていました。

危険な場所に赴く際、その傍らには、

必ず永源の姿があったんですよね。

1976年の二つの海外遠征でも、

永源は猪木のボディガードとして同行しています。

一つは韓国遠征、

パク・ソンナンの目に指を突っ込んだあの10.9 大邱です。

Gスピリッツ36表紙
 Gスピリッツ Vol.36 より

永源
「それも俺は行ってますよ。
(略)向こうが“猪木を倒したら人気が出る!”って感じで来たから、猪木さんはやっちゃったんでしょう。そういうことがあっても乗り越えちゃうんだから、猪木さんは凄いですよ。お客さんには何があったかはわからないだろうけど、異様な雰囲気は伝わったと思いますよ。やっぱりアマチュアで入って行ったら猪木さんは強いからね」


この見解は猪木本人とも一致していますね。

変に仕掛けてきたら、

そこが敵地であろうとも“やっちゃう凄さ”。

それが猪木というレスラーなんですよね。

ちなみに永源が言う「アマチュア」というのは、

日プロOBがよく使う“シュート”、“セメント”の呼称です。



もう一つの危ない試合は12.12 パキスタン・カラチ ナショナル・スタジアムでの、

アクラム・ペールワン“腕折り事件”(参照:アノキ・ペールワン~前編~同~後編~)ですね。

試合後、命懸けのあの緊迫した場面、

永源らセコンド陣は弾除けとなって猪木らを守りました。
堂々と控室へ

永源
「やっぱり一番守ったのがパキスタンですよ。あれは終わったらイチ、ニ、サンで控室に戻って、すぐにホテルへ逃げましたからね。で、そのホテルから出られなかったですから」

「新間さんが控室に来て、“永源ちゃんよ、向こうの対応が随分おかしくなってきたから、セコンドをしっかり頼むよ”って。きっと向こうは日本人のプロレスラーなんか大して強くないと思ってたんじゃないですか?」

「第3Rで猪木さんが腕を折っちゃって、新間さんの顔色が変わりましたよ。“早く行こう!”って。そこには倍賞美津子さんもいたからね。だから、すぐに控室に戻って、ホテルへ逃げて」


しかも永源はこの日の前座で、

全く予備知識のないペールワン一族の、

末弟であるゴガ・ペールワンとシングルマッチも行っています。

永源
「俺より一回りぐらい大きかったねえ。力も強い。だけど、技は何もなくて、組んだらもうボディスラムで投げたりとか。それしかできないホントに技なんか何もないよ。それで俺が悪いことして、向こうが1発殴ったら、7万人が“ウワーッ!”って。“何でこんなに騒ぐのかな?”と思ったけどね(笑)」

「危なくて下手に受けられない。怪我したら、どうしようもないからね」


相手の予備知識はもちろんないですし、

日本で迎え撃つのとは違って、

本当に何をして来るかわからないシチュエーションですからね。
永源vsゴガ

新日では荒川と並んで、

コミカルな試合っぷりが人気だったそうですが、

余程腕に覚えがないと、

こういう試合を受け入れられる訳がありません。



さらに日本でも、

“最も物騒な”格闘技世界一決定戦

1980年2.27 蔵前国技館
ウィリー・ウィリアムス戦(参照:物騒さ世界一決定戦~序章~同~前編~同~中編~同~後編~)においては、

猪木側セコンドの最前線で指揮を執りました。
インタバル中

試合前から異常なまでの緊張感に包まれた一戦、

リング以外でも永源は先頭切って猪木を護衛していたのです。

永源
「蔵前国技館の支度部屋の一番奥に衝立を作って、ずっと籠ってましたよ。特別な用事がない限りは誰も入れない。俺は新間さんから“永源ちゃん、どうなるかわからないから、セコンドだけはしっかりやってくれよ”と言われましたよ。“何かあった時には行ってくれ”って。そりゃ何かあったら行きますよ。逃げるわけにはいかないんだから」

「俺は常に飛び込める体勢でいたし、ラウンドが終了するたびに猪木さんが安全になる位置に立ってましたよ。でも、あれはどっちがいい悪いじゃなくて、緊張感のある試合だったね。空手側のエキサイトぶりは確かに異常だったけど、考えようによっては気持ちが純粋なんだと思いますよ。異種格闘技戦をやっていた頃は、熱い時代でしたね。みんなが純粋だったんですよ」


猪木が熱く走り抜けた最盛期において、

その横にはボディガードとして藤原の姿がありましたが、

実は藤原よりも数多くの修羅場を共にしていたのが、

永源だったんですね。

晩年の客席に唾を飛ばす永源しか知らない方には、

ぜひこの事実を知っておいて頂きたいな、と。
猪木は流血

そして当時の永源しか知らない方には、

心温まる引退後の永源エピソード、

ヨンペイさんの思い出をお読み頂きたい。

 サトウヨンペイの「S・D・ジョーンズ48(フォーティーエイト)」 より
記念写真

永源さんのご冥福を心よりお祈りします。
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tag : 訃報 永源遥 アントニオ猪木

comment

Secret

No title

永源で印象深いのは一連の鶴龍VS長州谷津で殺気立ってセコンドに立っていた姿です。なんか画面越しだけど迫力あったなぁ。キムケンと国際に乗り込んだ時も元気良かったし、「新日本ナメるなよ」との意識があったんですかね。

No title

永源さんの凄みは「行くしかないでしょ、逃げるわけにいかないんだから」ってさらっと言えちゃう所なんだなと思います。

相撲出身で且つプロレス式の練習で頑健な肉体を構築して壊れない自信があったのと、それこそ営業やプロモートで時には裏世界とギリギリのやり取りをして来た胆力は愛嬌のある顔立ちとはかけ離れた近衛兵としての凄みがあったんだと改めて感じます。組長や星野さんとも併せて新日が新日たる礎の一つだったのでしょうね。

もちろん今のご時世に於いては反社会的勢力との関わりは是とされないのですが、昭和と平成とで空気の違いを感じる一端には、変な話反社会的勢力ともギリギリのやり取りを交わせる胆力のある人材が今の各団体に少なくなったのも少しはあるのかな?なんて。個人的にはそれが無いなら無いに越したことはないとは思いますが、そこでの覚悟はリング上にも出てたのが昭和プロレスの魅力になってたのも一つの事実だったのかなと感じます。

少し脱線してしまいましたが、永源さんと言う貴重な時代の語り部になりうる方がこんな形で早逝されるのは余りにも残念です。

No title

aliveさんも触れられてますが、私もキムケンと組んで井上・浜口組と対戦した試合が印象に残ってます。対抗戦モードだったからなんでしょうけど、雰囲気からして、自分が知る普段の永源の試合とは全く違いましたね。

猪木の家臣として仕え、前面には出なかったものの、カメラの前を横切ったり、その甲高い特徴的な声がマイクに拾われたりと、この人誰だろう?と思わせるインパクトは昔からありましたね。

藤原みたいに、地味な中堅から脱皮する機会が与えられてたら、どうなってたでしょうね?

名脇役のご冥福をお祈りします。

No title

ハイブリッドボディとは真逆ですが、分厚くて頑丈そうな体ですね。喧嘩強そうだなあと思います。

No title

そんな永源さんの過去を知ったときの新鮮な驚きときたら、人に歴史ありと感動したものです。

後付け解釈で、猪木vsペールワン戦もまたプロレスであり、そもそも“ペールワン"なる称号はプロレスラーを意味しているにすぎないと批判する人がいますが、それは現在という安全圏に籠っているからこそ言えるのであって、あの時、あの場所に居合わせた人びとの実感をまるで汲み取ることができていません。

こないだYouTubeでフジヤマなんたらとかいう、高田をMCにした格闘技番組の動画を視聴していたら、「巌流島」の前フリとして、日本では知られざる海外の土着格闘技を取り上げていたんですが、これが凄まじくて、日本人の好む折り目正しい格闘技ではなく、ほぼ剥き出しのバイオレンスだったんです(笑)。
思えば高度情報化社会のとば口に当たる90年代初頭、「ヴァーリ・トゥード」や「グレイシー柔術」も、それらを世界に知らしめたUFCだって、最初はそのようなものとして迎えられたわけで、ましてや「1976年のアントニオ猪木」は、日本人が高度消費文化を享受し始めていたあの時代、世間どころか世界を騒がせたアリ戦の返す刀で軍事独裁下の韓国やパキスタンに行っちゃうんですから!!

未知にも程がある強豪を探して何千里、恐怖でウルルン滞在記をしたためた猪木さんの大冒険に付き合って、ノホホンと危険に身をさらし、朗らかに一線を越えてきた永源さんの太っ腹には、いったいどれくらいの歴史が詰まっているのでしょう?

大相撲、日プロ、新日、全日、そしてノアと、伏魔殿(失礼!)を飄々として渡り歩き、リング上の攻防からリング外の社交術にいたるまで誰もが認める実力者でありながら、それでいて、七福神のなかに紛れ込んでも違和感のない福々しさと、意外にマイクアピールを好まなかった永源さんの含羞を懐かしみつつ、合掌。


PS
永源さんが(まだ若くてエロっぽかった頃の)常盤貴子さんのサラサラヘアーに唾を命中させたときの興奮ときたら!
子ども心に、よくやった、永源!と快哉をあげたものでした。まぁ、ブッ○ケってやつか(笑)
不謹慎でごめんなさいm(__)m

No title

こんばんは!いつもありがとうございます!自分の場合は永源・・・「つば」しかないですね(笑)。それだけに猪木に信頼されてた永源、晩年も猪木と親交のあった永源。その事実がよりギャップとしてカッコよく感じたのかもしれません。あのやたらと高い声が頭の中から消えません。観戦した時には本当に試合からパワーをもらいましたね。ご冥福をお祈りいたします。

>aliveさん

印象深いのは一連の鶴龍VS長州谷津で殺気立ってセコンドに立っていた姿<あの時も前面に立っていましたよね。対抗戦だと俄然燃える体質だったでしょうか。
あと鶴田と長州のフルタイム戦のときは、谷津と永源が若林アナのインタビュー受けてましたよね。

キムケンと国際に乗り込んだ時も元気良かったし、「新日本ナメるなよ」との意識があった<キムケンも対抗戦だと隠れた強さをさらけ出していましたからね(U以外には)。
国際は国際で永源クラスにベルト取られるのは癪だったでしょうね。

>ささのっちさん

凄みは…さらっと言えちゃう所<極真とのいざこざでオープン選手権に送り込もうとしたのが、なぜ荒川や永源だったのか? これはかなり深い話なんでしょうね。

それこそ営業やプロモートで時には裏世界とギリギリのやり取りをして来た胆力<ギリギリだったのか? はたまた踏み込んでいたのか?? 時代もあって、ノアでは仲田氏と共に制裁を喰らった経緯もあった様です。

個人的にはそれが無いなら無いに越したことはない…そこでの覚悟はリング上にも出てたのが昭和プロレスの魅力<もうこれも力道山から始まってるから仕方のない事なんですよね。日本のプロレスにシュートマッチが存在したのも木村戦があったからだし、ショウとしての局面だってG・アントニオがいたから…全部つながってるはずです。

貴重な時代の語り部になりうる方がこんな形で早逝されるのは余りにも残念<前号のGスピリッツでも映像の残っていない東京プロレスの回顧されていましたしね。
プロレスの歴史を紐解く上でかなり重要なコメントを多々残された晩年でした。

No title

永源さんの訃報はTwitterのトレンドに「悪役商会」と有ったから俳優の「悪役商会」と思ったから八名信夫さんや嘗て所属してた丹古母鬼馬二さんが亡くなられたと思ったから。
僕は全日、ノア時代でそれこそ「つば大王」でしょうね。だから、最近に成って昭和プロレスを扱うサイトやブログで新日時代の事を知ることは出来ました。
顔が広いは時としてプラスに成るし仇と成ったりですが、こういう顔が広いレスラーも最近観ないような・・・。

レスラーの方々が追悼してましたが小林邦明さんに先日、大仁田さんとアジアタッグ王者に成った渕さんもブログで追悼してました。

ご冥福をお祈りします。サウナが原因か・・・。去年亡くなった俳優の加藤武さんもサウナが原因だっけ。

>“夜の帝王”亀熊さん

私もキムケンと組んで井上・浜口組と対戦した試合が印象に残ってます…自分が知る普段の永源の試合とは全く違いました<マイティは文句タラタラの試合でしょうが、間違いなくキムケンと永源の立ち振る舞いで緊張感が倍増されていました。

猪木の家臣として仕え、前面には出なかったものの、カメラの前を横切ったり、その甲高い特徴的な声がマイクに拾われたり<セコンドであれ何であれ、目だったもん勝ちみたいな部分は絶対にあります。

地味な中堅から脱皮する機会が与えられてたら、どうなってたでしょうね?<そうですね。スター性は確かにありませんが、今で言うYTRの始祖になっていた可能性もありますね。

>BPHさん

ハイブリッドボディとは真逆ですが、分厚くて頑丈そうな体…喧嘩強そう<そのコメントを読んで、もしかしたら夢枕獏著『餓狼伝』の丹波文七の身体はあんなんだったのかなぁ? と思ってしまいました。

>し~まさん

猪木vsペールワン戦もまたプロレスであり…それは現在という安全圏に籠っているからこそ言える<そうでしょうね。ましてや生身ですから。そして今では考えられないアウェイっぷりですし。とにかく凄い状況でしょうね。

「巌流島」の前フリとして、日本では知られざる海外の土着格闘技を取り上げていた…ほぼ剥き出しのバイオレンス<正当化しようもない世界ってありますからね。日本には地下格闘技なるジャンルはありますが、実際にはレフェリーがいて入場客に対しての見世物であって。“死”とか“カ●ワ”に直結するものはほぼないし、認められる訳がない訳で。
そういった部分では公のリングで公然と目に指を入れてしまう猪木ってのは…。

90年代初頭、「ヴァーリ・トゥード」や「グレイシー柔術」も、それらを世界に知らしめたUFCだって、最初はそのようなものとして迎えられた<アルティメットが出現した時、日本の格闘技ファンも「遂にこれが観られる時代が来た!」と喜ぶ者、「嫌なものを観てしまった」と嫌悪感を抱くもの、に二極化されました。私は後者でしたね。

猪木さんの大冒険に付き合って、ノホホンと危険に身をさらし、朗らかに一線を越えてきた永源さんの太っ腹<朗らかだったんでしょうかね? その時々は断崖絶壁だったでしょうけど、それを感じさせない位に穏やかな笑顔ですよね。

リング上の攻防からリング外の社交術にいたるまで誰もが認める実力者<まさしく。
当初、三沢が描いたノア旗揚げの形と違って、いきなり大所帯となったのは永源の力によるものという話がありますけど、それが本当なら良かったのか? 悪かったのか?
複雑な思いもありますよね。

常盤貴子さんのサラサラヘアーに唾を命中させたときの興奮ときたら!<そんな事もあったんですか~!? あ、確か常盤貴子って売れる前に週プロとか出てた記憶があるなぁ…。

>H.Tさん

こんばんわ。
こちらこそ、いつも勉強になります。

自分の場合は永源・・・「つば」しかない<むしろ悪役商会以降はそれしかなかったですもんね。

猪木に信頼されてた永源、晩年も猪木と親交のあった永源。その事実がよりギャップとしてカッコよく感じたのかも<BI両方に仕えたというのは驚異ですよね。
その狭間で長州を支えてもいた訳ですから、日本のプロレス史を語れる数少ない語り部でした。

>スライディングDさん

「悪役商会」と有ったから俳優の「悪役商会」と思った<安直なネーミングでしたけど、非常に明確に役柄が理解出来たユニット名でした。
関係ないんですけど、丹古母鬼馬二とパンピロ・フィロポって語感が似ていませんか?(笑)

顔が広いは時としてプラスに成るし仇と成ったり<荒川もそうですが、公然とその手の交友録を口にしていましたからね。暴対法が出来て以降はこういうエピソードも笑えなくなってしまいましたよね。

小林邦明さんに先日、大仁田さんとアジアタッグ王者に成った渕さんもブログで追悼<コバクニはジャパン・プロの時代がありますしね、渕は悪役商会ですか。

サウナが原因か<ご高齢者のサウナは危ないみたいですね。
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Author:紫レガ 
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