ヤマケンが語った田村との愛憎

山本喧一が引退するにあたって、

Uインター者のブログである以上、

ここに触れない訳にはいかないでしょう。

田村潔司との関係についてです。
田村ヤマケン1

同じ田村に対する感情でも、

ヤマケンのそれは桜庭和志とは、

とても比べものにならない程に深いのです。

通常の先輩後輩の間柄だった二人に、

溝が生じたのは1995年のゴタゴタに端を発します。

KAMINOGE vol.21
 KAMINOGE vol.21 より

ヤマケン
「それまで、内部は高田さんを頂点に完璧なピラミッドができあがってたんだけど、それもグチャグチャになっていってね。新日にしてみりゃ、『こりゃ、潰すチャンスだ』ってことで、甘いアンパンぶらさげて対抗戦に引っ張り出したんですよ」

「あとは『田村さん政権でもう一回立て直そう』みたいなところありましたけど、若手も一致団結できてなかったし、宮戸さんがまとめきれない間に、対抗戦の話がどんどん進んでいって。結局、宮戸さんは団体を出ることになり、田村さんは意固地になり。俺ら若手は、高田さんが一人一人に時間取って話をしてくれたんで、親分に頭下げられたら断わる子分はいないでしょ。普通、そんなことしませんよ。俺らからしたらそんなのもう二つ返事でしょう。考える余地なんかないですよ」


新日との対抗戦を何とか阻止せんと、

若手間でのクーデター計画があったのです。

その先頭に立っていたのは田村でした。

しかしヤマケンにしてみれば、

親分から頭下げられたら理想掲げる前にやる事があるだろ、と。

ヤマケン
「宮戸さんがいなくなったあと、田村さんを中心に若手だけのミーティングがあったんですよ。『みんなで真剣勝負の世界を作ろうよ』っていう話があって。それはUWFの思想だから、みんな望むところだし、若手はいつもそういう練習をしてきましたから異存はなかったんです。でも、『じゃあ、誰がそれを上に言う?』っていう話になって。当然、若手のトップである田村さんが言えばいいんじゃないですかってなるんですけど、言わないんですよ」

「しょうがないから『山崎(一夫)さんに頼もう』ってことになって、みんなで山崎さんのところに行って。山崎さんも最初はちょっとがんばって動いてくれたんですけど、しばらくしたらUインター辞めて新日に行かれて。『あれ、山崎さん辞めちゃったよ!』みたいになって。俺らが『どうする、どうする?』ってなってるところに、高田さんから直々に『新日とやってくれ』っていう話がきて。ボクらからしたら『もう、しゃあない。やるしかない』ってなったんですけど、田村さんだけが従わなくて、そっからボクらと田村さんとの間に溝が生まれたんです」


田村が中心となってUインターを立て直そうとしたところ、

一度は若手勢がまとまりかけたのですが、

それを託したのが、高田世代の山崎という矛盾。

結局は実行に移す事なく頓挫。

当時のUインターがいかに迷走していたかという証明ですね。

結局、水面下で進んでいた新日との対抗戦に進むのですが、

ヤマケンら若手としては田村の統率力に失望した訳です。

ヤマケン
「ボクらは親分に頭下げられたから、会社を守るために出たんですよ。田村さんは田村さんで『Uインターを守る』っていう自覚から出なかったかもしれないし、それはそれでいいとは思いますけど、そういう立場の人が、上と面と向かって喋れないのはちょっといただけないなって」


そこから田村は高田に直訴する機会を得ましたが、

結局は行き違い…ボタンの掛け違いが、

Uインターをバラバラにしてしまいました(参照:一番大きなボタンの掛け違い~後編~)。

ヤマケン
「田村さんがUインターを辞める前、ある人が間に入って
(※高田と)話し合ったんです。こっから先は言えませんけど、ボクが田村さんに対して怒り心頭だったのは、そのときの田村さんの対応がひどすぎたからですよ。だからその後、UFCジャパンのチャンピオンになったとき、田村批判をしたんです」


ヤマケンの長きに亘る田村批判、

その原点がこの高田と田村の決裂でした。
田村の呼び掛け

時は前後しますが、4年後の1999年11.19 東京ベイNKホール

『UFC23』
におけるUFC-Jミドル級トーナメントを制した勝利者インタビューにおいて、

ヤマケンは満を持しての爆弾投下を仕掛けます。
ヤマケンUFC-JAPAN決勝

ヤマケン
「えー、長い間お待っとさんでした!! ありがとうございました。
(略)最後にこれだけは言わせてもらいます!! Uインターのファンのみんな、並びUインターの選手全員に大嘘をついた田村潔司!! こいつだけは大の偽善者です!! 俺がリングスを辞めた本当の理由はこれです。さぁ結果出したんで、田村さん!! 俺と真剣勝負やる根性あったら、いつでもUFCに来て下さい!!」
ヤマケンUFC-JAPAN王者

4年前の田村発言(参照:真剣勝負発言)に対する、

まさしくヤマケン流の仕返しでしたが、

これに対する田村の答えは「売られた喧嘩は…逃げます(笑)」

これ以降、田村の口からヤマケンの名が出る事自体ほぼなくなったのです。

実際、ヤマケンが田村と直接対決する機会はありました。

キングダム崩壊後のリングス時代です。

ヤマケン
「その前に、ボクがリングスに入るとき、前田さんに『田村さんとは因縁がある。Uインターの最後に核爆弾を落としたのはあの人だ。ボクはあの人とケリをつけなきゃ気が済まない』と言ったんです。そうしたら前田さんは『田村はジャパン勢みんなとやって勝ったから、いまのポジションを与えてるだけだ。おまえも金原(弘光)も、やらせるからな』と言ってくれたんで、『望むところです。そうじゃなかったら契約しません』と言って入ったんですよ。でも結局できなかった。ボクは最後の最後まで田村さんが『おお、やってやるよ』って言ってくれるのを期待してたんですよ。でも全然違う答えが返ってきて…」


かくしてKOK導入以前のリングスにおいて、

二人の一戦は実現しました。

1998年12.23 福岡国際センター

田村潔司vs山本健一


決意のスキンヘッドで臨んだ念願の試合は、

不完全燃焼のTKO決着を迎えます。
田村ヤマケン2

結局、ヤマケンはこの試合後、もう1試合を経てリングスを去ります。

そこからはまさに流浪の格闘人生。

先に書いた『UFC-JAPANミドル級トーナメント』制覇、

自らプロデュースした『タイタンファイト』と、自らが賞金首となっての『クラブファイト』、

『UFC29』での世界ライト級王座挑戦、

リングス末期における須藤元気戦…、

そして2002年11.24 『PRIDE.23』に辿り着きます。

この日、高田延彦引退試合の相手として出場した田村と同じリングに上がる事に。

これに関しても田村はPRIDEを主催するDSEに対して、

一時的に欠場を匂わせる態度を示しましたが、

高田最後の試合とUインター集結の名のもとに、

結局は参戦を果たしました(参照:UWFインターの最終話)。

結果はともあれ、この日のヤマケン…本当にいい表情だったなぁ。
ヤマケン入場

大会エンディングにおいて全選手がリングに上がった際、

どちらからともなく二人は握手を交わしたそうです。
田村ヤマケン最後の握手

その後もヤマケンは波乱万丈の格闘人生で、

PRIDE、ムエタイ、M-1…そしてクラブファイトの復活。

その記者会見で改めて田村を痛烈に批判し対戦要求しますが、

そこに現実的なものはありませんでした。



ヤマケンの田村に対する20年近い愛憎劇、

いささか独りよがりの部分もあったかも知れません。

ただ、そこには言葉とは裏腹の本音も窺えます。
田村ヤマケンスパー

ヤマケン
「もちろん、実際やったとして、ボクが勝っていたかと言えば、負けたかもしれない。だけどやりたかったよね。ボクはね、Uインター時代、田村さんを尊敬してたんですよ。どっちかと言えば、ほかの先輩よりも可愛がってもらったほうだと思いますし」

「田村さんはホントに練習熱心だったしね。まあ、Uインターは高田さんも練習熱心なんだけど、やっぱりほかの仕事で忙しいから、毎日道場に来られるわけじゃない。でも、田村さんは若手のトップで毎日道場にいて、道場長みたいな感じで凄い練習熱心だったし、ボクもシゴキの練習以外の部分で田村さんとやる技術練習は凄く楽しかったんですよ。だからね、ボクは田村さんが弱いと思ってグダグダ言ってたんじゃなくて、ホントに強い、尊敬していた先輩だったからこそ、ちゃんとしてほしかったんです。筋道だけはちゃんとしてほしかったんだけど、まったく筋が通らないことをしたから、大好きだった先輩が嫌いになっちゃったんですよ」


ヤマケンの田村に対する想い、

それは猪木に対しての前田氏と近いものを感じます。

かつて愛情に飢えていた若者が、

深い愛情を与えられた人物の裏切りに似た行動を見てしまった時、

そこには愛情の深さを遥かに超える憎しみが生まれてしまう。

その憎しみは闘う事では氷解しないのかも知れません。

パワー・オブ・ドリーム…歴史は繰り返す。
田村ヤマケン3

ちなみに前田氏は猪木の一番弟子(参照:一番弟子が語るアントニオ猪木)と良い関係が続いています。

奇しくもヤマケンの引退試合を務めるのは、

田村の一番弟子(参照:上山龍紀の記憶~前編~~後編~)なんですね。

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tag : 山本喧一 田村潔司 RINGS PRIDE UFC

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No title

ヤマケンに関しては、リングス所属期の末頃に数回明らかな無気力試合をしてたんですよ。
試合中、突然気を抜いたような(亀田大毅が内藤戦の際にあったような「あかん、通じへん」って態度に近いようなもの)態度を示したりなどしていました。

正直私は見ていて不快だったので、
「敵わないなら敵わないでいいけど、試合を投げるなよ」
って感じで見てました。
「もう帰れ!」とヤジったこともあったかもしれません。

その後、何かの雑誌のインタビューで前田とヤマケンの対談があり
ヤマ「なんで、俺がおる時にやってくれんかったんですかKOK!」
前田「だから、もう少し待ていうたやろ」
という会話がありました。
それがどういう意味かは2通り考えられますが、分かりませんけどね。

で、田村に対戦要求を出しましたが正直
「お前に勝てるか」
って感じで見てました。
ヤマケンがUFCで勝った際も
「高瀬と藤井に勝ったくらいで偉そうに・・・」
という感じで。

で、ある日
『ホントに強い、尊敬していた先輩だったからこそ、ちゃんとしてほしかったんです』
というインタビューを見て、気持ちがかわりました。
きっと肌を合わせて、向かい合うことで、対話をしたかったんでしょうね。

そういう風に考えが変わると、
「柴田でも勝てなかった、修斗の高瀬や藤井にも勝ったんだよな」
とか思うようになりまして(笑)

>ナリさん

ヤマケンに関しては、リングス所属期の末頃に数回明らかな無気力試合をしてた<モチベーションをどこに置くか迷走していた感もありました。

試合中、突然気を抜いたような(亀田大毅が内藤戦の際にあったような「あかん、通じへん」って態度に近いようなもの)態度<実際、サイズの違う選手だらけのリングですしね。
ただ田村も金原も、そこを克服していった訳ですから、ヤマケンも腐らずにやっていれば、後のPRIDE参戦時も違う結果が出ていたかも知れないですよね。

「敵わないなら敵わないでいいけど、試合を投げるなよ」…「もう帰れ!」とヤジったことも<ああ、ナリさんは熱いファンだったんですね。思えば90年代まではプロレス会場(特にU系)にはそういうファンしかいなかった様な気がします。

ヤマ「なんで、俺がおる時にやってくれんかったんですかKOK!」前田「だから、もう少し待ていうたやろ」<それ新生時代の船木と一緒じゃないですか。
ヤマケンの場合はリングスの前に一旦キングダムという“ほぼ”理想郷に辿り着いた後だっただけに、再び遠回りする自分が嫌だったのかも知れません。

田村に対戦要求を出しましたが正直「お前に勝てるか」…UFCで勝った際も「高瀬と藤井に勝ったくらいで偉そうに・・・」<田村という名前に辿り着くにはいささか名前が小さかったかも知れませんね。
さらに言えば、ヤマケンが負けた相手ってほとんど田村が勝ってるんですよね。

『ホントに強い、尊敬していた先輩だったからこそ、ちゃんとしてほしかったんです』というインタビューを見て、気持ちがかわりました<闘う事が一番の落とし前だったのかも知れませんが、(シュートで)闘ったら闘ったでまたややこしくなっていたかも…という気がします。

「柴田でも勝てなかった、修斗の高瀬や藤井にも勝ったんだよな」とか思うように<でた! プロレスファンの三段論法(笑)。
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