血で血を洗う信頼感・੬~デスマッチとUWA~(1977~1981)

からのつづきです。

数々の事件と死闘を繰り返して来た、

アントニオ猪木タイガー・ジェット・シンの抗争は、

各地のプロモーターからドル箱カードとして歓迎され、
猪木大流血で場外戦へ

前回記事にした2連戦以降、

両者のシングルマッチはタイトル戦、ノンタイトル戦にかかわらず、

日本全国、アメリカ、メキシコ、果てはパキスタンまで、

5年間に26戦も行なわれました。
猪木渾身のダーッ!

その中でも日本マット界では、

これまでお目にかかれなかった類の、

数々の“デスマッチ”が印象深いです。

まず“新宿事件”からの決着戦となった、

1973年11.30 福山市体育館を皮切り(参照:੨~新宿伊勢丹路上襲撃事件~)に、
4度目の対戦はランバージャック戦

通算3度行なわれた“ランバージャックデスマッチ”
セコンド総出で戻されるシン

リング下に逃避する事を許さないという、

シンにとって圧倒的不利な試合形式ですが、

そのルールさえも隙を縫って狂乱ファイトを仕掛けていました。

1979年4.5 東京体育館でのNWFヘビー級選手権試合は、

猪木の鉄拳制裁を耐えたシンが、
猪木の鉄拳を耐え、

金的打ちから形勢逆転して、

サーベルを手にしますが、
金的打ちからサーベルを手にするが、

逆にアームブリーカーを食い、
逆に腕折りから、

サーベルを奪われて返り討ち。
返り討ちに遭い、

そのままダイビング・ニードロップで3カウントという、
急降下爆弾でカウント3

デスマッチらしい完全決着となりました。
快心のダーッ!

1981年6.4 蔵前国技館での第4回MSGシリーズ優勝戦進出者決定戦の延長戦は、
腕折りから、

どうしても勝敗を決しなくてはならない苦肉の策から、

このルールとなりましたが、
延髄斬り

最後はシンの反則負けという、

不透明決着に終わりました。
金的一発でシンの反則負け

そして皮肉にもこの試合が、

二人の最後の一騎打ちとなったのです…。

他に1977年2.10 日本武道館NWFヘビー級選手権試合での、

“フェンスデスマッチ”は、
凱旋帰国の吉田が猪木のセコンドに

場外乱闘が許されないという名目ですが、

のちに当たり前の様に設置された場外フェンスが、

初めてお目見えした試合でもあります。
リングの周りを白いフェンスが囲う

これはデスマッチの名に相応しく、
猪木の鉄拳制裁から、

最後は猪木の猛攻により、
きれいなブレーンバスター

シンが戦意喪失して、
シンは戦意喪失で、

猪木の完勝で幕を閉じました。
猪木の勝利

究極のルールは“ヌルヌル・デスマッチ”とも呼ばれる(?)、

1979年10.4 蔵前国技館NWFヘビー級選手権試合で行なわれた、

“インディアンオイル・デスマッチ”ですね。
長州と前田がオイルを塗りまくる

これはデスマッチというより、
静かな立ち上がりは猪木のアームロックから、

元々あるオイル・レスリング由来のルールでした。

猪木がスリーパーの連発で一本目を奪うと、
スリーパーへつなぎ一本目先取

シンもすぐにコブラクローで二本目を奪い返し、
二本目はシンがコブラクローで奪い返す

三本目は執拗なシンの足4の字地獄から、
長い長いシンの足4の字地獄

猪木がラフに転じると、
猪木は一転してラフに

それに触発されたシンがレフェリー殴打で、

反則負けで終わりました。
またもシンのレフェリー殴打で猪木防衛

これらの日本初というべき数々の試合形式。

デスマッチの定義がFMW以降の近代プロレスとは異なる時代に、

猪木は先駆者としていくつかを実践していたのです。

そもそも猪木が考えるデスマッチ論というのは、

 大仁田厚&インディペンデントSUPER BOOK! より

猪木
「一つの闘いの中で発展していくもの…つまり決着のためのデスマッチであって、今あっちこっちの団体でやってるのは、残酷性をいかに売り物にするかということでしょ? 基本的にとらえ方の違いがあるんですよ。一つの闘いが抗争へと発展していって、通常のルール内では終わらないという状況になって、決着のための手段として俺はデスマッチという試合形式を何度か取り入れてきた。だけど、今の
(※90年代のインディ団体)は最初からデスマッチでしょ?」


という事でして。

猪木とシンの抗争については、

いちいちデスマッチという設定をするまでもなく、

全ての試合が死闘と呼ぶのに相応しい内容だったのです。



さらに抗争の終盤においては、

メキシコの至宝ともいえるUWA世界ヘビー級を賭けての死闘があります。

これは営業本部長、新間寿が、

UWA首脳と親密だった事も関係しているのですが、

なぜかメキシコ本土ではなく日本で、

防衛戦が繰り広げられたんですよね。

そしてこの一連のUWA世界ヘビー級選手権試合

時には猪木がシン以上の狂乱ファイトを見せていました。

振り返れば、

1980年4.13 メキシコ・エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノスでの、

王者シンの角材を持ち込んでの反則による、
レフェリーの眼前での角材攻撃に、

王座移動によって、
即刻反則を言い渡されてシン呆然

猪木がベルトを巻き、
猪木UWA世界ベルト奪取

その後、同年7.17 蔵前国技館での初防衛戦を経て、

同年10.24 沖縄・奥武山体育館の2度目の防衛戦では、
鉄柱での腕折り

猪木がシンのお株を奪ったかの様に暴走。
さらにアームブリーカーから、

そのまま反則負けで、

ベルトを明け渡してしまいました。
腕ひしぎ逆十字という非情な攻めの猪木

試合後、乱入してきた上田馬之助にまで腕折り。
シンの援護射撃にあらわれた上田も腕折り

二人の凶悪コンビも絶妙でしたが、
場外で勝ちをアピールするシン、上田

この日の猪木の狂気は、まさしくそれ以上でした。
怒りの収まらない猪木

1981年2.6 札幌中島スポーツセンターはシンがピンフォール勝ちで防衛に成功し、

これが二人の最後のタイトルマッチとなりました。

10ヶ月弱の間に4度のチャンピオンシップ…、

既に二人の抗争は定番を越えて、

マンネリ化しつつもありました。

そんな中で80年代に吹き荒れた、

全日本プロレスとのレスリング・ウォーが、

二人の抗争に突然のピリオドを打ったのです。

いよいよ次回が最終章、です。

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tag : アントニオ猪木 タイガー・ジェット・シン UWA世界ヘビー

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最狂タッグ

出ましたね~最狂タッグコンビ。

本当にこのコンビは恐くて、おまけにファンから憎まれていた印象がありますね。

ファンがヒールレスラーを本当に悪い奴と信じて憎んでいた…なんて、それほど感情移入するのは、今のインターネット時代では無理でしょうね。

シンと馬之助、本当に悪くて強かった、外人と日本人のヒールコンビってのも斬新で、新日の歴史の中でも最狂のコンビだったと思います。

その裏では、馬之助がシンに自分の谷町紹介しまくって、飲み歩いた為にシンからストイックさが無くなって行ったなんて話も有りますが…

>アステカイザーさん

本当にこのコンビは恐くて、おまけにファンから憎まれていた印象がありますね<本気になって憎んでいましたね、全国民が。
流星仮面二世さんのコメントにもありましたが、父親の背中に隠れて見る位、少年たちにとっちゃ怖い存在でした。

シンと馬之助…新日の歴史の中でも最狂のコンビだったと思います<蝶野とかの時代になっちゃうと、いわゆるファッションヒールですもんね。

馬之助がシンに自分の谷町紹介しまくって、飲み歩いた為にシンからストイックさが無くなって行ったなんて話も有りますが…<昔の資料読み漁ってたら、ファイトは早い段階でそこを指摘していました。
ここからシンはリングで暴れると同時に、実業家への道も歩んで行った訳ですしね。腹回りを見てると、腕折り当時が一番コンディション良さそうです。
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